アメリカの国際連盟不参加|国内世論と孤立主義の帰結

アメリカの国際連盟不参加

アメリカの国際連盟不参加とは、第一次世界大戦後に設立された国際連盟に対し、その構想の提唱者であったアメリカ合衆国が最終的に加盟しなかった歴史的事実を指すものである。アメリカはパリ講和会議とヴェルサイユ条約の形成に主導的役割を果たしたにもかかわらず、国内政治上の対立と孤立主義的世論のために条約批准に失敗し、国際連盟に加わらなかった。この不参加は、戦間期の国際秩序とアメリカ外交の性格に大きな影響を与えた出来事として位置づけられる。

第一次世界大戦と国際連盟構想の成立

第一次世界大戦中、アメリカ大統領ウィルソンは「十四か条の平和原則」を提唱し、その中核として集団安全保障にもとづく新しい国際機構の創設を掲げた。これは、戦争を外交の手段として用いる旧来の勢力均衡外交からの転換を意図したものであり、講和交渉の場となったパリ講和会議を通じて、人類史上初の恒常的な国際平和機構としての国際連盟の設立へと結実した。連盟規約はヴェルサイユ条約の一部を構成し、戦勝国だけでなく将来的には全世界の参加を視野に入れた構想であった。

ウィルソンの理想とアメリカ国内政治

しかし、国際秩序の再編を世界規模で構想したウィルソンの理想は、アメリカ国内の政治状況と必ずしも一致しなかった。アメリカ合衆国憲法は条約の批准に上院の3分の2以上の賛成を必要としており、大統領は自らの構想を実現するために上院の支持を取りつけなければならなかった。だが、ウィルソンは国内での説得よりもパリ講和会議での交渉に力を注いだ結果、帰国後にはすでに上院多数を占める共和党との関係が悪化していた。

上院の反対勢力と主権への懸念

上院共和党のロッジを中心とする反対派は、国際連盟規約第10条が加盟国に対し他国の領土保全を共同で保障する義務を課すことに強い警戒感を示した。彼らは、この規定がアメリカを望まぬ戦争に自動的に巻き込み、国家主権および議会の戦争宣言権を侵害すると主張したのである。また、伝統的なモンロー主義に立脚し、ヨーロッパの政治に恒常的に関与することへの心理的な抵抗も根強かった。ドイツ系やアイルランド系移民の一部も、講和条件の不公平さを理由に条約と連盟への批判を強めた。

批准否決の経過

ウィルソンは妥協を拒み、自らが描いた国際連盟規約をほぼ原案どおりに受け入れるよう上院に求めたが、反対派は留保条項を付した修正案を提示して対抗した。1919年以降、上院では原案と修正案の双方が採決に付されたものの、いずれも必要な3分の2には届かず否決された。ウィルソン自身も国内遊説中に倒れ、政治的指導力を失ったことで事態を好転させることができなかった。最終的にアメリカはヴェルサイユ条約を批准せず、1921年にドイツなどと個別の講和条約を結ぶ道を選択し、結果として国際連盟には参加しなかった。

アメリカの孤立主義と国際秩序への影響

アメリカが国際連盟に参加しなかったことは、戦後国際秩序に深刻な影響を与えた。経済力と軍事力において大きな比重を占めるアメリカが不在であったため、連盟は制裁や軍事行動に踏み切る際の実効性を欠き、とくに安全保障面で限界を抱えることになった。一方、アメリカは完全な孤立を保ったわけではなく、1921〜22年のワシントン会議や、戦争放棄をうたったケロッグ=ブリアン条約など、条約を通じて限定的に国際秩序の構築に関与した。ただし、これらはあくまで個別の合意であり、集団安全保障機構としての国際連盟には代替し得なかった点で、アメリカの不参加は戦間期の平和体制を不安定にした要因の一つとみなされている。