アフリカ民族会議
アフリカ民族会議は、南アフリカ共和国における最大の黒人政治組織であり、植民地支配とアパルトヘイト体制に対する解放運動の中心的存在である。起源は南アフリカ連邦成立直後の黒人指導者による全国組織で、当初は「南アフリカ先住民民族会議」として発足し、その後現在の名称へと改称された。黒人参政権の獲得、土地と居住の権利、人種差別法の撤廃を掲げ、やがて全人種的な民主主義国家の実現を目指す運動へと発展し、今日も与党として南アフリカ政治に大きな影響力を持ち続けている。
成立の背景と創設
アフリカ民族会議の成立は、英植民地支配のもとで進められた南アフリカ連邦の形成と、黒人住民の政治的排除に対する危機感から生まれた。連邦成立後、黒人は国政レベルの選挙権からほぼ排除され、土地所有も厳しく制限された。こうした状況に対し、各地の部族首長、牧師、知識人らが協議し、黒人を代表する全国的な政治組織を結成する必要があると判断したのである。この動きは、欧州植民地支配に対抗するアフリカの民族主義の流れの一環として理解できる。
初期の穏健路線と請願運動
創設期のアフリカ民族会議は、イギリス帝国への忠誠を前提としつつ、黒人にも「文明化した臣民」としての政治的権利を認めるよう求める穏健な路線をとった。指導者たちは請願書を作成し、ロンドンへの代表団派遣や政府との交渉を通じて、教育を受けた黒人への限定的な参政権付与や土地政策の緩和を訴えた。しかし、白人支配層は譲歩をほとんど示さず、黒人の政治的排除と差別法はむしろ強化され、穏健な請願戦術の限界が次第に明らかになっていった。
青年同盟の登場と大衆運動への転換
その転機となったのが、1940年代に結成されたアフリカ民族会議青年同盟である。ネルソン・マンデラやオリバー・タンボ、ウォルター・シスルら若い世代は、従来のエリート中心の慎重外交ではなく、ストライキやボイコット、不服従運動など大衆を動員した直接行動を主張した。青年同盟の影響のもとで採択された「行動綱領」は、民族的自決と完全な平等を明確に掲げ、運動をエリートの請願から人民の大衆闘争へと大きく方向転換させたのである。
非暴力抵抗運動と自由憲章
1950年代、アフリカ民族会議はインド系組織などと協力し、大規模な不服従運動や抗議行動を組織した。1952年の不服従運動では、分離施設の利用拒否や通行証法への集団違反など、ガンディー流の非暴力抵抗が展開され、多くの逮捕者を出しつつも国際世論の注目を集めた。1955年には、将来の民主南アフリカの基本原理を示す「自由憲章」が採択され、人種にかかわらず全市民の政治的平等と社会的権利をうたった。この構想は、のちに南アフリカ憲法の理念に受け継がれていく。
武装闘争と亡命活動
しかし、国家側は弾圧を強化し、シャープビル事件後、アフリカ民族会議は非合法化され、多くの指導者が逮捕や亡命を余儀なくされた。組織内部では非暴力路線の限界が認識され、武装組織「民族のやり」を結成して地下活動に入る。国内での秘密工作と並行して、周辺アフリカ諸国や社会主義圏から支援を受けつつ、国連や国際世論に対しアパルトヘイト体制への制裁と孤立化を訴えた。同時期には、北アフリカでのリーフ戦争やリーフ共和国の経験など、他地域の反植民地闘争との比較も意識され、アフリカ全体の解放運動との連帯が深まっていった。
アパルトヘイト終焉と政権掌握
冷戦末期になると、国際社会でアパルトヘイト非難の声が高まり、経済制裁や文化・スポーツ交流の停止など、南アフリカは急速に孤立した。国内でも黒人労働者のストライキや都市暴動が激化し、政権は体制維持が困難になっていく。1990年、政府はアフリカ民族会議の合法化とマンデラ釈放に踏み切り、民主化交渉が開始された。1994年の最初の全人種参加選挙で同会議は圧勝し、マンデラが大統領に就任した。こうして、長年のアパルトヘイト体制は形式的に終焉し、解放運動組織は国家の与党へと転じたのである。
理念・組織構造と他地域との比較
アフリカ民族会議は、黒人多数派の利益代表であると同時に、人種の枠を超えた「非人種主義」を掲げる点に特徴がある。党内には労働組合や共産党など多様な勢力が共存し、社会民主主義的な再分配政策と市場経済の調和を模索してきた。このような性格は、植民地支配からの解放後に民族主義政党が与党化した多くの地域と共通しており、中東でのアラブ諸国の独立やサウジアラビア王国、イラク王国、ヨルダンなどの建国過程とも比較される。また、他地域の経験と同様、長期与党化に伴う汚職や派閥抗争、貧困と格差の是正など、多くの課題に直面している点も重要である。
アフリカ解放運動の中での位置づけ
アフリカ民族会議は、アフリカ大陸における反植民地闘争と独立運動の象徴的存在のひとつであり、他国の運動にも理論的・実践的な影響を与えた。多くのアフリカ諸国が独立を達成していくなかで、南アフリカの解放が最後まで残された「未完の課題」とみなされ、各国政府や解放運動は南アフリカ支援を重要な任務とした。この意味で、同会議の歩みは大陸全体の脱植民地化プロセス、すなわちアフリカの民族主義と緊密に結びついて理解されるべきである。