アスキス
アスキス(Herbert Henry Asquith, 1852-1928)は、20世紀初頭のイギリス自由党を代表する政治家であり、1908-1916年に首相を務めた人物である。自由党内閣の長として、社会改革・財政改革を推進するとともに、第一次世界大戦開戦時の戦時指導者としても重要な役割を果たした。とりわけ、富裕層への課税強化や社会保障立法は後の福祉国家の先駆けと評価され、一方で戦争指導をめぐる決断と混乱は、自由党の分裂と衰退を招く要因ともなった。
生涯と法曹としての出発
アスキスは1852年、イングランド北部ヨークシャーに生まれた。少年期に父を失いながらも、奨学金を得て名門オックスフォード大学に進学し、古典学を学んだ後、ロンドンで弁護士として活動した。法廷弁護士として成功を収めたことは、鋭い論理力と演説術を鍛える場となり、のちの議会での弁舌にも大きな影響を与えた。この法律家としての経験が、彼の政策立案や法制度改革への関心を支えたと理解されている。
自由党政治家としての台頭
アスキスは19世紀末に自由党から庶民院議員に選出され、やがて内務大臣・財務大臣など要職を歴任した。自由党は当時、自由貿易・議会政治・宗教的寛容を掲げる一方で、社会問題への対応を迫られていた。都市労働者階級の成長にともない、イギリスの社会主義運動や労働組合の声が強まると、自由党はそれらと協調しつつ選挙基盤を拡大していった。こうした流れの中で、アスキスは穏健かつ実務的なリベラル政治家として頭角を現し、党内で中心的地位を占めるようになった。
ボーア戦争と帝国問題
19世紀末から20世紀初頭にかけて行われたボーア戦争(南アフリカ戦争)は、イギリス帝国主義のあり方をめぐって国内世論を二分した。自由党内には戦争に批判的な勢力が多く、アスキスもまた、戦費拡大や市民的自由の制限に懸念を示した政治家の一人であった。戦後、南アフリカ地域はドミニオンとしての自治領化へ向かうが、その過程での和解政策や自治付与の議論は、自由党の帝国政策と結びつき、アスキスの穏健な帝国観を形づくる背景となった。
首相としての内政改革
1908年に自由党首相キャンベル=バナマンの後継として登場したアスキスは、社会改革と財政改革を柱とする政策を推し進めた。富裕層への課税を強化する「人民予算」によって、年金制度や失業保険などの社会保障財源を確保しようとした点は画期的であり、後世の福祉国家政策の先駆とみなされる。これらの改革は労働者階級や新興の労働党支持層に一定の支持を与える一方、貴族院との対立を激化させ、憲政上の重大な争点を生み出した。
- 老齢年金制度の導入
- 失業保険・傷病保険の整備
- 累進所得税・相続税の強化
- 貴族院の拒否権を制限する議会法の成立
イギリス社会主義との連関
アスキスの自由党政権は、明確な社会主義政権ではなかったが、その改革路線はフェビアン協会など漸進的社会主義勢力と接点を持っていた。フェビアン協会の知識人であるバーナード=ショーやウェッブ夫妻は、国家による社会政策の拡充を通じて資本主義を漸進的に変容させる構想を掲げており、これは自由党の改革と重なる部分があった。また、独立労働党や社会民主連盟、さらには労働代表委員会から発展した労働党、その指導者ケア=ハーディらとの関係も、自由党と労働運動の微妙な協力と競合を象徴している。
第一次世界大戦と挙国一致内閣
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アスキス内閣は参戦を決断し、戦時内閣として国民動員と戦費調達に取り組んだ。しかし戦争は長期化し、軍事作戦の失敗や砲弾不足などの危機が相次いだことで、政府への批判が高まった。1915年には保守党を含む挙国一致内閣を組織して体制立て直しを図ったが、指導力不足や決断の遅れが指摘され、最終的に1916年、自由党内のライバルであるロイド=ジョージに首相の座を譲ることになった。この政変は自由党の分裂を決定的にし、以後のイギリス政治では労働党が台頭する契機となった。
退陣後の活動と歴史的評価
退陣後もアスキスは議会に残り、自由党指導者として復権をめざしたが、党勢は回復せず、二大政党の一角は保守党と労働党の争いへと移行していった。彼の政治的遺産は、一方では人民予算や社会保障立法にみられる改革的リベラリズムとして、他方では戦時指導における逡巡と自由党分裂の象徴として、評価が分かれている。しかし、19世紀的自由主義から20世紀的福祉国家への橋渡しを行い、イギリス政治史上の転換期を体現した首相として、アスキスの位置づけは今日もなお重要である。