アクバル|ムガル繁栄を築いた皇帝

アクバル

アクバル(Akbar, 在位1556〜1605年)は、第3代ムガル帝国皇帝であり、北インドに強固な中央集権国家を築いた君主である。若年で即位したが、有能な将軍と官僚を用いて帝国を拡大し、異文化・異宗教を包摂する寛容な統治によって、インド史上屈指の名君として評価されている。

即位と帝国統一への道

アクバルは、建国者バーブルの孫、2代皇帝フマーユーンの子として生まれた。父の死により13歳で即位したが、当初は宰相ベイラム・ハーンの後見を受けつつ政務を行った。彼はデリーやアーグラを中心に北インドを制圧し、かつてのデリー・スルタン朝やロディー朝の領域を超える広大な版図を獲得した。ラージプート諸侯との戦争と同盟を組み合わせた政策によって、西北インドの支配も安定させた。

中央集権体制と行政改革

アクバルは、地方勢力に依存したゆるやかな支配から、皇帝を頂点とする官僚制国家へ帝国を転換した。彼はマンスブダーリー制と呼ばれる官職・軍役・給与の制度を整備し、トルコ系、ペルシア系、インド土着のムスリムやヒンドゥーの有力者を組み込んで、軍事と行政を一体的に運営した。また、土地測量と収税制度を改革し、ザブト制に基づく課税を行うことで、農村から安定した歳入を確保した。この仕組みは後代のアウラングゼーブ期までムガル財政の基盤となった。

宗教政策とディーン・イラーヒー

アクバルの最大の特徴は、宗教的寛容を重視する統治姿勢である。彼はスンナ派イスラームの信徒であったが、ヒンドゥー教徒への人頭税ジズヤを廃止し、ラージプート諸侯の娘を后として迎えるなど、異教徒の地位向上を図った。アーグラ近郊のファテープル・シークリーに建てたイバーダト・ハーナ(宗教談話堂)には、イスラーム教諸派のみならず、ヒンドゥー教、ジャイナ教、キリスト教、ゾロアスター教の学僧を招き、宗教対話を行った。晩年には、各宗教の教えを折衷した新たな信仰「ディーン・イラーヒー」を提唱し、皇帝への忠誠と道徳的生活を強調したが、信徒数は限られ、後継者には継承されなかった。

都城建設と文化事業

アクバルは、政治・軍事だけでなく文化の保護者としても重要である。彼はアーグラやファテープル・シークリーに壮麗な宮殿やモスクを建設し、インド土着の建築様式とペルシア風装飾を融合させた独自のムガル建築を発展させた。宮廷にはペルシア系の書記や画家が集まり、細密画や年代記編纂が盛んに行われた。代表的史料『アーイーネ・アクバリー』『アクバル・ナーマ』は、廷臣アブル・ファズルによってペルシア語で著され、当時の行政制度や社会状況を伝える第一級資料となっている。

対外関係と交易の発展

アクバル期のムガル帝国は、オスマン帝国サファヴィー朝など西アジアのイスラーム諸王朝、さらにはポルトガルなどヨーロッパ勢力との外交・通商を展開した。インド綿織物や香辛料を求めて訪れる商人たちに対し、彼は港湾都市の治安維持と通商の保護を図り、帝国経済を繁栄させた。こうした対外関係は、インド洋世界からインド内陸部への富の流入を促し、宮廷文化や都市経済の隆盛を支えた。

後世における評価

アクバルは、宗教的寛容と多民族統合を掲げた統治者として、インド史・イスラーム史双方で高く評価されている。彼の時代には、政治的安定と経済成長に支えられた「黄金期」が到来し、後のジャハーンギールやシャー・ジャハーン期の繁栄の土台が築かれた。一方、ディーン・イラーヒーのような試みは一代限りに終わり、没後には宗教政策の揺り戻しも生じた。それでもなお、異文化共存と帝国統合を両立させようとしたアクバルの構想は、近代以降のインド多民族社会を考えるうえで、重要な前例とみなされている。