アカディア|北米東岸の仏植民地

アカディア

アカディアは、北アメリカ東岸の現在のカナダ東部にあたる地域に成立したフランス系植民地であり、ミクマク族など先住民社会と結びついた独自の農漁村社会が展開した地域である。17世紀初頭からフランス人入植者が定着し、大西洋岸の戦略的要地としてフランスとイギリスの抗争の舞台となった。18世紀には度重なる戦争と講和条約により主権が揺れ動き、最終的にはイギリス支配下でアカディア人の追放が実行されるなど、帝国間競合の典型例として位置づけられる。

地理的位置と名称

アカディアは、現在のノバスコシア半島、ニューブランズウィック南部、プリンスエドワード島、さらにはメイン州北部を含む大西洋岸に広がる地域を指す。フランス人探検家がこの地を「Arcadie」と呼んだことに由来し、肥沃な干拓地と豊かな漁場を背景に、農業と漁業を組み合わせた村落が形成された。この地域は北のニューフアンドランドや内陸の「新フランス」とも結びつき、北大西洋世界の一角を構成した。

フランス植民地としての成立

17世紀初頭、フランスは北アメリカにおける勢力拡大の一環としてアカディアへの入植を開始した。サン・クロワ島やポールロワイヤル(のちのアナポリスロイヤル)などに拠点が置かれ、小規模ながら恒常的なフランス人共同体が形成されていった。宗教的にはカトリックが優勢であり、本国フランスと同様に王権とカトリック教会の結びつきが強く、ルイ14世の専制体制やヴェルサイユ宮殿を中心とする宮廷文化とも間接的につながる周辺植民地として位置づけられた。

英仏抗争と主権の移り変わり

北大西洋の要地であったアカディアは、17〜18世紀を通じてフランスとイギリスの武力衝突の焦点となった。欧州本土で起こったファルツ戦争オランダ侵略戦争アウクスブルク同盟戦争などの対フランス戦争は、大西洋世界にも波及し、アカディア沿岸の砦や港湾はたびたび攻防戦に巻き込まれた。とりわけ18世紀初頭のスペイン継承戦争は、アカディアの帰属をめぐる決定的な転機となる。

  • 17世紀後半:英仏両国が砦や港を奪い合う不安定な時期
  • 18世紀初頭:スペイン継承戦争により北米植民地戦争が激化
  • 1713年:ユトレヒト条約でアカディアの大部分がイギリスに割譲される

ユトレヒト条約とイギリス支配

ユトレヒト条約は、アカディアの歴史において決定的な意味をもつ講和条約である。条約によりフランス王ルイ14世は、アカディアをはじめとする広範な北米領土をイギリスに譲渡し、フランスの勢力はセントローレンス川流域の新フランスへと後退した。この背景には、ルイ14世の膨張政策やナントの王令の廃止後の国内宗教政策が招いた国力の疲弊、さらには海上覇権をめぐるオランダの衰退とイギリスの台頭といった、ヨーロッパ規模の国際環境の変化が存在した。

アカディア人社会と文化

フランス系住民であるアカディア人は、干潟の干拓による農業と大西洋岸での漁業を組み合わせた自給的・地域密着型の生活様式を築いた。彼らはカトリック信仰を保持しつつ、先住民との交易や通婚を通じて柔軟な関係を築き、帝国本国から相対的に距離を保った「周辺のフランス世界」を体現した存在であった。イギリスによる主権変更後も、アカディア人は中立的立場を維持しようとしたが、七年戦争へとつながる帝国間の緊張の中で、その中立性はしだいに疑われていく。

追放とディアスポラ

18世紀半ば、七年戦争前後の緊張の中でイギリス当局はアカディア人の忠誠を問題視し、多くの住民を強制移送する政策を実行した。この「大追放」は、家族単位の解体や財産没収を伴い、多数のアカディア人が北米東岸のイギリス植民地、カリブ海、さらにはフランス領ルイジアナへと散逸する結果をもたらした。その一部はのちに「ケイジャン」として知られる共同体を形成し、フランス語系文化を新たな地で継承した。こうしたディアスポラの過程は、ヨーロッパの宮廷政治やヴェルサイユ宮殿を中心とする外交交渉が、遠く離れた植民地社会の運命を左右した一例といえる。

アカディアの歴史的意義

アカディアの歴史は、北大西洋世界における帝国競合と周辺社会の自律性という二つの視点から理解される。欧州本土の王朝戦争や宗教政策、たとえばファルツ戦争アウクスブルク同盟戦争、さらにはオランダ侵略戦争といった連続する戦争は、講和条約を通じてアカディアの主権と住民の運命を大きく左右した。一方で、先住民社会との共生や小農的生活を基盤としたアカディア人社会は、帝国中心から距離をおきながら独自の文化とアイデンティティを育んだ北米フランス語世界の一形態として評価される。