アウクスブルク同盟戦争|ルイ14世と欧州列強の大戦争

アウクスブルク同盟戦争

概要

ヨーロッパの大国フランスと、その拡張を抑えようとする列強とのあいだで行われた大規模な国際戦争がアウクスブルク同盟戦争である。おおよそ1688年から1697年まで続き、英語では「Nine Years’ War」、ドイツ語では「Pfälzischer Erbfolgekrieg(プファルツ継承戦争)」とも呼ばれる。この戦争は、ルイ14世体制の最盛期における対外膨張政策と、絶対王政フランスの覇権を警戒する神聖ローマ帝国・イギリス・オランダなどの結集とが激突したものであり、戦場はライン川流域、ネーデルラント、イタリア、スペイン国境、さらには海上や植民地にまで広がった。最終的にリスウィック条約によって講和が成立し、フランスの優位は一定程度維持されたものの、ヨーロッパ諸国が「勢力均衡」の名のもとに対フランス包囲網を組む枠組みが定着する契機となった。

背景

この戦争の背景には、17世紀後半のフランス王ルイ14世による対外膨張政策がある。彼は国内ではヴェルサイユ宮殿を中心とする華麗な宮廷文化と中央集権を確立し、対外的にはオランダ侵略戦争や南ネーデルラント継承戦争などを通じて国境地帯の拡大を進めた。その過程で、ライン川流域や神聖ローマ帝国西部の諸領邦に対し、曖昧な法的根拠をもとに領有を主張する「再統合法(レユニオン政策)」を推し進めたため、ドイツ諸侯とハプスブルク家の警戒心が高まった。さらに、三十年戦争とウェストファリア条約によって辛うじて保たれていた帝国内の宗教・領土秩序を、フランスが一方的に掘り崩しつつあるという認識が広がったことも、反フランス連合形成の重要な要因となった。

アウクスブルク同盟の成立

  • 17世紀後半、帝国諸侯やスペイン、スウェーデンは、フランスの侵出から自らの領土とウェストファリア体制を守る必要に迫られた。そのため1686年、ドイツ南部の都市アウクスブルクにおいて、防衛的性格を持つ「アウクスブルク同盟」が締結され、神聖ローマ皇帝レオポルト1世、バイエルン選帝侯、パラティナート選帝侯などがこれに参加した。
  • この同盟は当初、帝国内の秩序維持を主目的とするものであったが、フランスがライン方面での軍備増強と圧力を強めるにつれ、より広い国際的同盟へと発展していった。1688年のイングランドにおける名誉革命によって、オランダ総督ウィレム3世がイングランド王位を掌握すると、彼はフランス包囲に積極的な王として知られるようになり、イングランドとネーデルラント共和国が反フランス同盟に合流し、いわゆる「大同盟」(グランド・アライアンス)が形成された。
  • このように、アウクスブルク同盟は、帝国諸侯の地域的防衛同盟から、イギリス・オランダ・スペイン・神聖ローマ帝国などが結集した汎ヨーロッパ的な対フランス連合へと転化し、ヨーロッパ外交における「集団安全保障」的な発想の先駆けとみなされるようになった。

戦争の経過

戦争は1688年、フランス軍がライン川上流域のプファルツ選帝侯領などに侵攻したことを契機として始まった。フランスは、ライン方面での攻勢により、皇帝軍を拘束するとともに、低地地方ではネーデルラントやイングランド軍と対峙した。作戦上、フランスは優れた要塞化と機動力を背景に防御的優位を保ちつつも、長期戦による財政的負担が次第に重くなっていった。

  • ライン戦線では、フランス軍がプファルツ地方の都市や農村を徹底的に破壊し、焦土戦術によって敵軍の補給を断とうとしたため、ドイツ西南部は深刻な荒廃に見舞われた。一方、皇帝軍と同盟諸国軍は決定的勝利を収めることができず、消耗戦の様相が強まった。
  • 低地地方の戦いでは、フランドルやブラバントをめぐって攻防が繰り返され、ナミュールなど要塞都市の攻囲戦が象徴的であった。ここでは、フランス側の要塞技術者ヴォーバンによる近世要塞と攻囲戦術が威力を発揮し、近代的な攻城戦の典型とされる。
  • 地中海沿岸やスペイン国境、イタリア戦線でも小規模な戦闘が続き、さらに海上ではイングランド・オランダ連合艦隊とフランス海軍とのあいだで制海権をめぐる戦いが展開された。フランスは通商破壊戦を通じて敵国の商業を打撃しようとしたが、最終的に制海権を確保するには至らなかった。

名称と別称

この戦争は、ドイツ史では主としてプファルツ選帝侯家の継承問題に端を発することから「ファルツ継承戦争」と呼ばれることが多い。一方、フランスに対抗する反フランス連合の名を強調して「アウクスブルク同盟戦争」と表現する場合もあり、英語圏では戦争期間に由来して「九年戦争」とも称される。呼称の違いは、戦争の性格を「継承戦争」とみるか、「対フランス同盟戦争」とみるかという視点の差を反映している。

リスウィック条約と戦後秩序

長期にわたる消耗戦は、フランスだけでなく同盟諸国にも莫大な財政負担を強いた。そのため1697年、オランダの都市リスウィックで講和会議が開かれ、リスウィック条約が締結された。この条約により、フランスは神聖ローマ帝国に占領地の多くを返還し、ロレーヌ公国が形式的に復活したが、アルザスの大部分と重要都市ストラスブールの保持は認められた。また、フランス王はイングランド王としてのウィリアム3世の地位を承認し、名誉革命後の新しい王政が国際的に容認されることになった。

しかし、この講和は決して恒久的な平和をもたらしたわけではない。フランスの対外的影響力と軍事力は依然として強大であり、スペイン王家の継承問題が未解決のまま残されていたため、ほどなくしてスペイン継承戦争が勃発することになる。したがって、リスウィック条約は、ルイ14世の覇権拡大にいったん歯止めをかけつつも、次の大戦への序章という性格を持っていたと評価される。

歴史的意義

この戦争は、宗教対立を主軸とした三十年戦争型の紛争から、勢力均衡と王朝国家の利害を中心とする近世後期の戦争への移行を象徴している。諸国はフランスの一国覇権を阻止するために広範な同盟網を組み、国際政治の場では「均衡」の維持が主要な目標として意識されるようになった。また、長期にわたる戦争遂行のために、各国は徴税制度の強化や常備軍の整備といった国家財政・軍事機構の整備を進め、重商主義政策のもとで経済力の増強を図った点でも重要である。さらに、ドイツ西部の荒廃や民間人への被害は、近世戦争がもはや限定的な騎士戦争ではなく、国家財政と社会全体を巻き込む総力戦的な性格を強めつつあったことを示している。このように、同盟諸国の結集と国家機構の発展という二つの側面から、近世ヨーロッパ国際秩序の形成に大きな影響を与えた戦争であった。

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