アイルランド国民党|アイルランド自治求めた国民政党

アイルランド国民党

アイルランド国民党は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてイギリス議会内で活動したアイルランドの民族主義政党である。英語ではIrish Parliamentary Partyと呼ばれ、ロンドンの議会という制度の枠内で、アイルランドに自治権(ホーム・ルール)を獲得することを主目的とした。カトリック教徒の地主・中産階級・農民を基盤とし、イギリスの二大政党に対して組織的な圧力を加えることで、アイルランドの政治的地位向上と土地問題の解決を図った点に特色がある。

成立の背景

19世紀のアイルランドでは、1801年のアイルランド併合によって、アイルランド議会が廃止され、ロンドンのウェストミンスターに統合された。これにより大ブリテンおよびアイルランド連合王国が成立したが、アイルランドでは政治的発言力の低下と経済的従属への不満が強まった。1840年代のジャガイモ飢饉は、大量の餓死と移民を生み、イギリス支配への反感をさらに深めた。その後、1848年の青年アイルランド党や1860年代のフィニアンの武装蜂起が失敗に終わると、議会内で合法的に自治を求める路線が力を持つようになり、その受け皿としてアイルランド国民党が形成された。

党の形成と指導者

1870年代にホーム・ルール運動が高揚すると、地方の民族主義団体や議員グループが統合され、1874年前後に議会内で一大勢力としての国民党ブロックが形成された。なかでもチャールズ・スチュワート・パーネルは、規律ある党組織を整備し、党員に投票行動の統一を強く求めたことで知られる。彼の下でアイルランド国民党は、イギリス本国の自由党や保守党にとって無視できない「キャスティング・ボート」を握る存在となった。

ホーム・ルール運動と議会戦術

アイルランド国民党の中心目標は、アイルランドに独自の議会を復活させるホーム・ルールであった。パーネルらは、イギリス議会において長時間演説などの議事妨害戦術を駆使し、アイルランド問題を常に政界の最重要争点として維持した。また、イギリス自由党のグラッドストン内閣に対し、ホーム・ルール法案提出を支持の条件とすることで、1886年・1893年の二度にわたるホーム・ルール法案上程を実現した。これらは最終的に挫折したが、アイルランドの自治要求がイギリス全体の政治構造を揺さぶる問題であることを鮮明にした。

社会基盤と土地問題

アイルランド国民党は、カトリック教会や地方の民族主義団体と結びつき、農民層から広範な支持を得た。アイルランドでは、地主の多くがイギリス系プロテスタントであり、小作農は政治的にも経済的にも不利な立場に置かれていた。国民党は、土地改革を求める農民運動と連携し、地代軽減や自作農化を政府に迫った。その過程で、イギリス本国の自由主義的改革、たとえば選挙権拡大や秘密投票法選挙法改正(第3回)などが進み、アイルランドのカトリック農民も選挙を通じて国民党に議席を与えることが可能になった。

イギリス政治との関係

国民党は、イギリスの二大政党との連立関係を巧みに利用した。とくに自由党との協力は重要であり、グラッドストンの対アイルランド宥和政策は、国民党の支持を背景として推進された。一方で保守党は、帝国の統一を重視しアイルランド自治に慎重であったため、国民党との対立が強かった。このような構図のもと、イギリス本国の政治改革、たとえば労働者保護を進めた労働組合法や国民的教養の拡大を図る教育法なども、アイルランド票を意識して進められた側面がある。

分裂と衰退

1890年代、パーネルのスキャンダルを契機として党は分裂し、求心力を失った。20世紀初頭にはジョン・レッドモンドの指導のもとで再統合が進み、1914年には第三次ホーム・ルール法案が可決に至ったが、第一次世界大戦の勃発により施行は延期された。その間に1916年のイースター蜂起が起こり、より急進的な共和主義勢力であるシン・フェインが台頭する。1918年総選挙でシン・フェインが圧勝すると、議会内での自治追求というアイルランド国民党の路線は国民的支持を失い、やがて歴史の表舞台から退いた。

歴史的意義

アイルランド国民党は、武装蜂起ではなく議会政治を通じて自治を追求した民族運動政党であり、19世紀以降のアイルランド民族主義の一つの重要なルートを示した。青年期の武装運動である青年アイルランド党フィニアンと、20世紀の共和主義運動との橋渡しを行い、イギリス帝国内での自治要求が、帝国全体の憲法構造や国旗ユニオン=ジャックの下での支配関係を問い直す契機となった。その活動は、アイルランド独立と分割の過程を理解するうえで欠かせない存在である。