アイユーブ朝|サラディン興したスンナ王朝

アイユーブ朝

アイユーブ朝は、サラーフッディーン(サラディン)が1169年にエジプトの宰相として台頭し、シーア派のファーティマ朝を1171年に終息させてスンナ派体制を復興し、エジプト・シリア・ヒジャーズ・イエメンへと勢力を拡大したスンナ派王朝である。1187年のヒッティーンの戦いで十字軍主力を撃破してエルサレムを回復し、第三回十字軍に対しては軍事と外交を併用して均衡を保った。サラーフッディーン没後は一族への分封と内訌で緩やかに分権化しつつも、カイロとダマスクスを中核に地中海と紅海の交易を結びつけた。1250年、カイロの軍事奴隷(マムルーク)が実権を掌握してエジプトにおける王統は断絶し、以後はマムルーク朝が継承した。ただしシリアの一部では一族の小政権がしばらく存続し、モンゴル来襲とマムルークの宗主権の下で姿を消すに至った。

成立と背景

サラーフッディーンはシリアのザンギー朝勢力で鍛えられ、エジプトで宰相に就任すると行政・軍事を掌握して1171年にイスマーイール派のカリフ制を廃し、スンナ派の法学・教育制度を全面的に再建した。1170年代後半にはシリアへ進出してダマスクスやアレッポを取り込み、エジプトとシリアを単一の戦略圏に統合した。首都カイロでは城塞の築造・拡張、兵站路の整備、紅海航路の保護が進み、内陸の穀物輸送と外洋商業の結節点として国力の基盤が整えられた。

年表(主要出来事)

  • 1169 サラーフッディーン、エジプト宰相に就任
  • 1171 ファーティマ朝終息、スンナ派復興
  • 1174 シリアへ進出し広域統合を開始
  • 1187 ヒッティーンの戦いで大勝、エルサレム回復
  • 1192 第三回十字軍と停戦(ラームラ協定)
  • 1229 フリードリヒ2世とヤッファ協定(外交的妥協)
  • 1249–1250 第七回十字軍とマンジュラの戦い、マムルーク台頭
  • 1250 エジプトでマムルークが政権掌握、王朝断絶

統治と軍事編成

アイユーブ朝の支配は一族分封による同盟的構造であり、中心君主が宗主権を保持しつつ、各地の親族が都市と周辺を統治した。軍事は「mamluk(マムルーク)」の編成強化と「iqta’(イクター)」と呼ばれる土地割当制の活用に支えられ、常備的な騎兵力と徴発体制を両立した。防衛面ではダマスクス城壁やカイロ城塞などの要害整備が進み、紅海沿岸の港湾・関所の統制により、地中海戦線とインド洋ルートの双方に資源を回すことが可能となった。

宗教・学芸政策

宗教面ではシーア派機構を整理し、スンナ派四法学派の均衡に配慮してマドラサを設置した。ワクフ(waqf)財産により教育・救貧が持続的に支えられ、法学・歴史叙述・書誌学が発展した。ダマスクスとカイロは学匠の往来が活発で、礼拝施設や学院建築は幾何学装飾と碑文で威信を示した。

十字軍との抗争と外交

対外戦は軍事決戦と外交妥協の併用である。1187年の勝利後、第三回十字軍の圧力に対しては城郭防衛・海上補給・騎兵突撃を連動させ、最終的に沿岸都市の一部を相手方に残す停戦で国力を温存した。サラーフッディーンの後継者は、聖地と交易利益の均衡を図りつつ、キリスト教勢力と局地的な和議や交換を重ね、長期消耗を避ける現実主義を採用した。

分裂、モンゴル圧力、終焉

サラーフッディーン没後は一族の継承競合が続き、アル=アーディルやアル=カーミルの下で再統合と分裂が交錯した。13世紀にはモンゴルの西アジア進出が激化し、シリアは度重なる圧迫を受けた。エジプトではスルタン・アル=サーリフの下でマムルーク軍団の比重が増し、第七回十字軍の侵攻を撃退する過程で将軍層が台頭した結果、1250年にカイロで王統が交替した。対モンゴル帝国の決戦(1260年、アイン・ジャールート)はすでにマムルークの時代であるが、その軍制と戦略基盤はアイユーブ朝期の遺産に支えられている。シリアの一部では一族政権がマムルーク宗主下で存続したが、最終的に統合されて姿を消した。

地中海・紅海交易の連結

エジプト穀倉地帯の余剰と紅海・イエメン経由の香辛料・織物・金銀流通を、地中海のアレクサンドリアやレバントの港湾と結ぶ回路が確立した。これによりカイロは金融・情報・人材の集積地となり、学芸・建築・軍備が再生産された。宗教的にはカイロとダマスクスがスンナ派知の双極をなし、バグダードのアッバース朝が衰微していく局面でも、法学的権威の継承が保たれた。

歴史的意義

アイユーブ朝は、スンナ派共同体の再編、カイロ中心の戦略体系の確立、十字軍との長期抗争における持久と妥協の技法、そして後続のマムルーク体制に継承される軍事・財政・都市基盤を遺した。分封的な柔構造は遠隔地統治の機動性を生んだ一方で内訌の火種ともなったが、広域の連結性を高め、学芸都市としてのカイロとダマスクスの地位を決定づけた点に意義がある。結果として、紅海と地中海を直結する政治経済モデルが確立し、イスラーム世界西半の重心がエジプトへと再定位したことが、この王朝の最大の歴史的成果である。