『ローマ建国史』リウィウス
古代ローマの歴史叙述の根幹をなす大著がローマ建国史であり、その著者リウィウスはアウグストゥス期に活動した代表的歴史家である。全142巻とされる本書は、アエネアースの伝承から共和政・地中海覇権の確立に至るまでを年代順に叙述し、初期ローマを理解するうえで不可欠の一次的伝承の集積である。現存は一部に限られるが、王政期・初期共和政・第二次ポエニ戦争・マケドニア戦争などの核心部分が読み取れる。また、本書は道徳的教訓(exempla)を重視し、政治的秩序や市民的徳を称揚する点に特色がある。
著者と時代背景
リウィウス(紀元前59―紀元17)は北イタリア・パタヴィウム出身の文人で、元老院政治の内部に属さない立場から共和政ローマの歴史を描いた。執筆はアウグストゥスの平和(Pax Augusta)が進む時期に進展し、内乱の記憶を踏まえつつ、共同体の徳と秩序の回復を理念として叙述が構想された。彼の語り口は修辞学的で、演説や人物評を通じて読者に倫理的判断を促す性格を帯びる。
作品の構成
ローマ建国史は年次記録(annales)の形式で進み、現存部分はまとまりごとに学術的慣行で「デカス(10巻単位)」として区分される。全体像は断片・梗概(Periochae)や後代史家の引用で補える。
- 第1–10巻:王政期から初期共和政、ガリア人来襲後の再建、サムニウム戦争終結(紀元前293年)まで。
- 第21–30巻:第二次ポエニ戦争。ハンニバルのイタリア侵攻、カンナエの敗北、スキピオのザマ勝利。
- 第31–45巻:第一次・第二次マケドニア戦争から第三次マケドニア戦争後(紀元前167年)まで。
内容の概略
物語はトロイアの英雄アエネアースの漂着から始まり、ロムルスによる都市創建、七王の統治と追放、政体の共和政への移行を描く。続いて、周辺諸都市との抗争、階級闘争、イタリア統一戦、カルタゴとの決戦、東方ヘレニズム諸王国との戦争を経て、ローマが地中海世界の中心権力へと成長する過程が焦点化される。伝承と歴史が交錯する初期章段は神話的色彩が濃く、後半に向かうほど同時代史家や公文書に基づく割合が増す。
叙述の特徴と目的
リウィウスは出来事の因果を徳と放縦、規律と驕慢の対比で説明し、国家の興亡を道徳的視座から描く。長広舌の演説体は歴史的事実の再現以上に政治的・倫理的熟考を促す装置である。英雄像の提示は読者にローマ的価値――勇気(virtus)、節度(moderatio)、敬神(pietas)――を思い起こさせる。
- 年次主義:各年の執政官に沿って事件を配列。
- 演説の配列:政策選択を多面的に提示し、判断の視点を与える。
- 道徳的教訓:個人と共同体の徳が盛衰を決めるという枠組み。
史料と方法
ローマ建国史は初期伝承の口碑、年代記作家(ファビウス・ピクトル、ヴァレリウス・アンティアスなど)、ポエニ戦争期の同時代史家ポリュビオス、祭政に関わる公的記録(祭暦・凱旋記録)等に依拠する。とはいえ、数字や戦果の誇張、氏族伝承の受容など、近代的厳密史学から見れば限界もある。彼は批判的選別を行いつつも、道徳的説話性を損なわぬ範囲で史料を融合する。
- 伝承層:王政期・初期共和政の神話的素材。
- 実証層:ポリュビオスなどの同時代記録。
- 公文書層:年鑑・法令・凱旋リストの参照。
受容と影響
リウィウスはローマ帝政下から中世・ルネサンスに至るまで古典教養の中心を占め、修辞学教育の規範とされた。近代に入ると国家徳・市民徳の思索に資するテクストとして読み継がれ、ニッコロ・マキァヴェッリ『ディスコルシ』は本書の共和政的活力を手がかりに現実政治を論じた。近現代の研究は、彼の物語的構築が共同体アイデンティティ形成に果たした機能を強調する傾向にある。
伝本とテクストの保存
ローマ建国史は写本伝承の断絶により多くが散逸したが、抄録(Periochae)や引用断片が全体像の復元に資する。人文主義者たちによる写本探索で幾つかの巻が再発見され、校訂学の発展とともに本文は整備された。今日の校訂版は写本群の系譜を比較し、異読を注記して批判的本文を提供する。
評価と意義
リウィウスは厳格な実証史家ではないが、ローマ社会が自己を物語化した枠組みを構築した点で独自の価値をもつ。彼の叙述は、勝利の理由を軍事技術の優位にのみ求めず、規律と徳と制度の均衡に見出す。したがって、本書は「事実の記録」であると同時に、「共同体の記憶」を定着させる文化的営為である。考古学・碑文学・比較史の成果と対話させることで、物語の背後にある社会構造や政治文化が一層立体的に把握できる。
書名の意味
原題“Ab Urbe Condita”は「都市創建以来」の意である。都市(Urbs)とはローマそのものを指し、書名そのものがローマ中心の時間意識を体現している。すなわち、本書は出来事の羅列ではなく、「ローマ的時間」を編む企てである。
現代研究の視点
近年の研究は、王政期伝承の神話的層位、共和政の政治文化、戦争と市民権の連関、東地中海世界との相互作用に注目する。特に、演説・人物評の配置と章段設計を分析することで、叙述の倫理的プログラムと読者への規範提示の仕組みが解明されつつある。これらの成果はローマ建国史を史実照明の資料としてだけでなく、規範構築の文学として読み直す契機を与える。