遣米使節団|幕末の志士によるアメリカ使節,勝海舟・福沢諭吉ら

遣米使節団

遣米使節団とは、1860年に日米修好通商条約の批准のためにアメリカの視察を目的とした使節団である。当初は日米修好通商条約の交渉にあたった岩瀬忠震、井上清直らが選出される予定であったが、井伊直弼が大老になると、安政の大獄により、両氏は弾圧される。その後、勝海舟福沢諭吉ジョン万次郎などが使節団としてえらばれ、咸臨丸に向かってアメリカに向かった。

日米修好通商条約

日米修好通商条約

日米修好通商条約

日米修好通商条約において、アメリカへの使節団の派遣が決定した。日米修好通商条約の草案審議の席上で幕府全権委員の日付の岩瀬忠震・下田奉行井上清直の両氏がアメリカ総領事タウンゼンド・ハリスに直接提案し、賛同を得たことによって実現された。岩瀬忠震、井上清直らは批准書交換をもってみずからアメリカに出向き、日本の近代化を推し進めるための原動力としようとの意図だったと考えられる。

井伊直弼

井伊直弼

安政の大獄

井伊直弼が大老に就任すると、遣米を控えていた岩瀬忠震、井上清直らは安政の大獄で弾圧された。その後も遣米使節に内定していた人物の多くが安政の大獄で処罰されてしまい、最終的には、正使に神奈川奉行兼外国奉行の新見正興、副使に勘定奉行兼外国奉行の村垣範正、目付には小栗忠順(上野介)が任命された。交渉において岩瀬忠震、井上清直と信頼関係を得ていたハリスは、この人事に不満を待ち、江戸幕府を批判した。

咸臨丸

遣米使節には、幕府軍艦咸臨丸が随行した。咸臨丸はヤパン号と呼ばれ、和蘭製の船で長崎海軍伝習所で練習艦として用意られた。船には司令官木村喜毅、艦長勝義邦(勝海舟)以下、開明派の海軍士官や福沢諭吉、アメリカ海軍のブルック大尉ら11人、通訳の中浜万次郎など総勢96人が乗船していた。

遣米使節団

1860年1月18日(和)、アメリカ軍艦ポーハタン号で横浜港を出帆した遣米使節団の一行は、ハワイ、サンフランシスコ、パナマを経て5月14日(西)にワシントンに到着。5月17日(西)遣米使節団はそこでアメリカ大統領ブカナンと会見し、将軍の親書を手渡した。工場、病院、学校、議事堂などを見学し、喜望峰、インド洋を経て、9月27日(和)に帰国した。

遣米使節団の日記

遣米使に接待されたインターナショナルホテルでは、絨毯の上を靴をはいたまま歩くことや徳利(シャンパン)の口をあけると恐ろしい音がしたことなど、驚愕をもって日記にしたためられている。

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