橋本左内|幕末の志士,近代国家構想,安政の大獄

橋本左内 はしもとさない

橋本左内(1834-59)は福井藩士。江戸末期に活躍した思想家である。幕末にあって近代国家の構想を描いた。大阪で緒方洪庵の適塾で医学を学ぶ。知性をかわれ藩政にも参加。将軍継嗣問題では、一橋派で徳川慶喜を擁立して奔走するが、井伊直弼が大老になると、徳川慶福と任命された。政治からは身を引くが、続いて井伊直弼安政の大獄が始まると、その対象となり、わずか25歳で獄死する。

緒方洪庵の適塾に入学

橋本左内は1834年3月1日、福井藩の藩医・橋本長綱の嫡男として、福井城下に生また。名は綱紀という。16歳で大坂の緒方洪庵の適塾(適々斎塾)に入学し、そこで蘭方医学を学び、小浜藩士・梅田雲浜、熊本藩士・横井小楠らと交友を重ねた。1852年に父の病気により帰郷すると、家督を相続し、藩医となる。

御書院番

1855年、橋本左内は医員を免じられ、士分(武士の身分)に列せられ御書院番となり、藩政に深く関わることとなる。

洋書習学所

1857年、藩校明道館の学監同様心得(教師)となり、洋書習学所を設け、洋学の研究を行った。英語やドイツ語も理解していた。

近代国家構想

橋本左内は欧米列強の強国を念頭に現実的な近代国家日本の構想抱いていた。徳川慶喜を将軍とし、将軍を頂点に雄藩連合を形成して、身分を超えて能力のある人材を登用し、適所に配置した、統一国家を構想した。外交的には、親露路線をとり、ロシアと攻守同盟を結び、外国貿易を推し進め、西洋の学術を導入して富国強兵を図った。

将軍継嗣問題

橋本左内は高く評価され、藩主の松平慶永の側近となり、将軍継嗣問題では一橋派の中心人物であった松平慶永の片腕として関わることとなる。しかし、井伊直弼が大老に就任すると、形勢は悪化し、徳川慶福を将軍継嗣が決定的になる。

安政の大獄

将軍継嗣問題の後、井伊直弼により安政の大獄呼ばれる大規模な弾圧が行われる。橋本左内は軽輩の身でありながら将軍継嗣問題に介入したことに対しての責任を問われ、不行き届きとして、1859年10月、江戸伝馬町の獄で刑死した。わずか25歳であった。

『啓発録』

『啓発録』とは、橋本左内の主著でわずか15歳のときに執筆された。「稚心を去る」、「記を振るう」、「志を立てる」、「勉学」、「交友をえらぶ」など道徳が説かれた。

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