楔形文字
楔形文字(claytablet,英:cuneiform)はメソポタミアで使われた世界最古級の文字体系の一つとされている。楔形文字は、象形文字から発達し、葦でできた先のとがった筆を使って粘土板(clay tablet)に楔形を印した。メソポタミア文明で使われた楔形文字は人類最初の文字だと言われている。当初は模様として考えられていたが、ローリンソンやグローテフェントによって文字として認識され、解読が進められた。
紀元前4千年紀後半から使用が始まり、シュメール人やアッカド人をはじめとするさまざまな民族によって行政、宗教、経済活動など幅広い分野で利用された。もともと絵文字に近い形態だったと推定されるが、時代を経るにつれて抽象化が進み、複雑な文法や語彙の表現にも対応できる体系へと発展していった。その結果、都市国家の誕生とともに高度な社会組織と学術的知識を記録する手段として不可欠な存在となったのである。

楔形文字
起源と初期の特徴
初期の楔形文字は、経済管理における記号として発達したと考えられている。家畜や農作物の数量、取引の内容などを表すために粘土板に刻まれた記号群が、後に文法構造を伴う文字体系へと変化した。最初期は数や概念を示す簡単なピクトグラム(絵文字)に近いもので、粘土板の上に尖った道具で線を刻み込む過程で楔形の筆跡が生じたと推測される。特定の対象や行為を表す記号が増えるにつれ、表音的な要素が重視されていくことで文書の表現力が向上したのである。
使用言語の多様性
シュメール語やアッカド語をはじめ、後にはバビロニア語やアッシリア語など、古代メソポタミア地域では複数の言語が楔形文字を介して記録された。王朝の変遷や商業活動の拡大により、同じ文字体系を異なる言語で運用するケースが増えたのである。このような多言語環境は、統治や外交文書の作成だけでなく、文学作品や学問的著作の普及にも大きな役割を果たした。例えばギルガメシュ叙事詩などはアッカド語で残され、後世の文学や宗教観に影響を与えた。
機能と用途
行政文書や税務記録、契約書などの公的使用を中心にしながら、学問的文書や神話、法律典の編纂にも楔形文字が活用された。粘土板は大量生産が容易であり、乾燥や焼成によって長期保存が可能だったことから、王宮や神殿の書庫に膨大な数の文書が蓄積されていたという。下記のような用途が知られている。
- 商取引: 物品の数量や契約内容の記録
- 法律: ハンムラビ法典など条文の明文化
- 宗教: 儀式や祈祷文、神話の編纂
文字形態の変遷
楔形文字は、初期には下から上に向けて書かれていたが、後に左から右へと横書きする形式に変化した。筆跡の方向転換や字形の簡略化が進んだ結果、同一の記号でも複数の読み方や意味を持つ場合が多くなり、記述する言語によって使い分けられた。さらに時間の経過とともに字数が膨大になったことで、学術的文書を読み解くためには専門の書記や学者の素養が必要とされた。
粘土板
楔形文字は粘土板に記載された。いわゆる日干しレンガで焼いて堅くして保存された。粘土板に葦のペンで書かれたため、楔(くさび)の形をしており、楔形文字と呼ばれる。
ギルガメシュ叙事詩と洪水伝説
オリエント最大の文学である『ギルガメシユ物語』のうち、神がおこした大洪水の部分が書かれた粘土板が発見されている。戦争が引き分けに終わったあと、両国の間で講する世界最古のものである。もともとは、ウルクの王ギルガメシュを主人公とするシュメール人の物語であったが、後世では、いくつかのオリエントの言語で書かれたテキストが伝存する。その一部に『旧約聖書』のノアの洪水伝説の原形と推測される話がある。
楔形文字の解読
ザグロス山中のベヒストゥーンの崖に、アケメネス朝のダレイオス1世が楔形文字で刻んだペルセポリスの碑文が発見され、そこにはペルシア・エラム・バビロニアの3語併記されている。イギリスの考古学者でイランの軍事顧問であったローリンソン(1810ー1895)は、危険を冒して自ら手写した碑文の研究を通じ、古代ペルシア語やエラム語と合わせて解読を進めた。その成果によってメソポタミア文明に関する膨大な文献資料が読めるようになり、歴史学や考古学における大きな転換点となったのである。さらにドイツの考古学者グローテフェント(1775ー1853) がペルセポリスの碑文をもとに進めていた楔形文字の解読を前進させ、当時のギリシャで歴史書が残っていたペルシャの王名から「クセルクセス」の名、6文字を解読した。

ペルシア・エラム・バビロニアの3語併記
グローテフェント

グローテフェント
ボアズキョイの発掘
1905年から翌年にかけて、ドイツのヴィンクラー(1863~1913)が、当時オスマン帝国領であったアナトリア高原のボアズチョイの遺跡を発掘し、ヒッタイト王国の首都ハットゥシーの存在を明らかにした。遺跡より多数出土した粘土板文書の解読と研究をつうじて、やがてヒッタイト学という学問が成立し、現在は日本からも調査隊が派遣されて、小アジア各地でさかんに発掘がおこなわれている。
文化的意義
楔形文字は、都市国家の成立や官僚制度の確立と深く結びついていた。長距離交易によって得られる物資の管理や、祭祀や治水事業など大規模な社会活動の遂行には正確な記録が欠かせなかった。また王の権威を示す碑文や墓碑にも活用され、支配体制の正当性や文化的価値観を後世に伝える役割を担った。さらに医術や天文学、数学など学問領域の成果をテキスト化することで知識が蓄積され、文明の飛躍的発展を可能にしたのである。
後世への影響
紀元前1千年紀頃を境にアラム語など別の文字体系が普及すると、強調されてきた楔形文字の役割は徐々に減退した。やがてアルファベット系の文字が西アジア一帯で主流となり、楔形文字は忘れ去られていく。しかし文字としての拡張性や複雑な表現力は、その後の文字文化の発展にも示唆を与えた。多言語・多文化社会の中で、同一の記号を共有しつつ多様な言語を記述できる概念は、現在の国際文書や学術資料の扱いにも通じる部分がある。