日露和親条約|幕末の日露外交を開く条約

日露和親条約

日露和親条約は、1855年(安政元年)に江戸幕府とロシア帝国とのあいだで結ばれた最初の正式な条約である。交渉は伊豆下田で行われたため「下田条約」とも呼ばれ、日本が鎖国体制から徐々に外圧に応じて開国へと向かう重要な節目となった。本条約は北方国境の画定や港湾の開港、難破船救助や通商の基本原則などを定め、その後の日米和親条約や諸外国との不平等条約体制の出発点の一つと位置づけられている。

締結の背景

19世紀前半、ロシア帝国はシベリアから太平洋岸へと勢力を拡大し、千島列島や樺太に進出していた。一方の日本は江戸時代後期の幕末期にあり、外国船の来航が増加するなかで沿岸防備と通商政策の見直しを迫られていた。1853年にペリー率いるアメリカ艦隊が来航し、翌年に締結される日米和親条約と前後して、ロシア使節プチャーチンも軍艦で来日し、日本側に条約締結を強く求めたのである。

条約の内容

  • 北方国境については、択捉島以南を日本領、得撫島以北をロシア領とし、樺太は両国雑居として境界を定めないままにした。
  • 箱館(函館)・下田・長崎の3港をロシア船に開港し、物資補給や限定的な通商を認めた。
  • 難破船や遭難民の救助、互いの臣民の保護に関する規定を設けた。
  • 箱館にロシア領事を置き、自国民の裁判権を行使する領事裁判権的性格の規定が含まれていた。

このように日露和親条約は、本格的な通商条約というよりも、両国の「親善」と北方問題の整理を目的とした基本条約であったが、治外法権や関税自主権の制限など、のちの不平等条約体制につながる要素もすでに含まれていたと評価される。

締結の過程

ロシア使節プチャーチンは1853年に長崎へ来航し、以後も日本近海に滞在しながら条約交渉の機会をうかがった。ペリー艦隊来航による外交日程の混乱や、国防をめぐる幕府内の対立もあり、交渉は遅延したが、最終的には川路聖謨ら幕府の外交担当者が下田で折衝にあたり、1855年2月に日露和親条約の調印に至った。地震や津波によりロシア艦隊が被害を受けるなどの出来事もあったが、双方とも軍事衝突を避け、あくまで条約による解決を模索した点に特徴がある。

影響と意義

日露和親条約によって、日本は初めて北方の国境線を国際的に画定し、千島と樺太をめぐる問題を部分的ながらも条約の枠組みに組み込んだ。また、箱館にロシア領事館が設置され、通訳・商人・宣教師などが往来することで、北方を中心にロシア文化や東方正教会の情報が流入する契機ともなった。このような外国人社会の形成は、のちの明治維新後に本格化する近代化の先駆的経験であり、近代ヨーロッパの思想家であるニーチェサルトルらが論じた帝国主義の時代に日本がどう向き合うかという課題とも密接にかかわっていたといえる。

その後の日本とロシアの関係

日露和親条約による千島・樺太問題の「両国雑居」規定は、やがて権益をめぐる摩擦を生み、1875年の樺太・千島交換条約によってようやく整理されることになる。その後、シベリア鉄道の建設などロシアの極東進出が進むと、朝鮮や満洲をめぐる対立が先鋭化し、最終的には1904年の日露戦争へとつながった。こうした長期的な緊張関係の出発点に日露和親条約が位置していることを踏まえると、条約は単に一時の外交妥協ではなく、日本の対ロシア外交と北東アジア国際秩序の原点として歴史的意義をもつ。同時に、軍艦建造や砲台整備に不可欠なボルトなど近代工業製品の需要が高まった点にも、幕末日本が世界経済に徐々に組み込まれていく過程を読み取ることができる。