後藤象二郎|土佐藩,大政奉還

後藤象二郎とは

後藤象二郎とは幕末・明治時代の政治家。幕末期に土佐藩の参政として政務を執り、大政奉還運動を推進した。

目次

誕生

天保9年(1838)3月19日、土佐藩士後藤助右衛門(御馬廻格という役職であった)の長男として誕生する。義理の叔父である土佐藩参政の吉田東洋の知遇で少林塾に学ぶ。同門には後に大政奉還運動を共に推進していくことになる福岡孝弟や日本郵船会社・三菱の創業者である岩崎弥太郎らがいた。

 

吉田東洋の暗殺

幡多郡奉行・御近習目付などを勤めていたが、文久2年(1862)に後ろ盾であった吉田東洋が暗殺されると、職を辞して雌伏の時を迎えた。文久3年(1863)に江戸へ遊学する。開成所にて航海術を学んだ。

土佐藩参政へ

元治元年(1864)に土佐へ帰国し、山内容堂(前土佐藩主)へ殖産興業のための開成館の設立や長崎貿易、汽船購入などを建白した。やがて土佐藩の大監察に任じられると、「土佐勤王党」の取り締まりを行なった。後藤象二郎は参政の地位に就いて土佐藩の実権を握ることになる。開成館の経営に尽力し、長崎・上海に赴いて自ら汽船購入の任にあたった。

大政奉還運動

慶応3年(1867)1月、長崎にて土佐脱藩浪士の坂本龍馬と会談し、行動を共にすることになる。坂本龍馬と接触した頃から、将軍が天皇に政権を返上する「大政奉還」を実現させるために周旋することを決心する。10月4日、老中の板倉勝静へ大政奉還建白書を提出する。13日に徳川慶喜が大政奉還を決意するに至る。

明治時代へ

慶応3年(1867)12月9日、王政復古政変によって新政府が誕生した。後藤象二郎は参与に就任し、大阪府知事や左院議長などを歴任した。明治6年(1873)に参議となるが、「明治六年政変」によって政府を去った。明治7年(1874)、板垣退助・副島種臣・江藤新平ら「明治六年政変」で政府を去った者たちと共に「民撰議院設立建白書」(民撰議院設立の必要を説く)を提出した。一時期政府に復帰して元老院副議長を務めるが、辞任する。
明治14年(1881)、自由党の結党に加わった。明治15年(1882)、政府の働きかけにより板垣退助らと共にヨーロッパ視察に出掛ける。明治20年(1887)、大同団結運動を主唱し、東北・東海地方へ遊説に出掛けるなど国会開設を見通して民党の結集に尽力した。
明治22年(1889)、黒田清隆内閣の逓信大臣に就任する。第一次山県有朋内閣・第一次松方正義内閣にも逓信大臣として入閣した。第二次伊藤博文内閣では農商務大臣となった。明治30年(1897)、死去する。

参考文献

『国史大辞典』「後藤象二郎」(執筆:鳥海靖)

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