広東軍政府
広東軍政府(かんとんぐんせいふ)は、中華民国初期の軍閥割拠時代(1910年代後半から1920年代前半)にかけて、孫文を中心とする南方の革命派が広州において樹立した対抗政権である。当時の中国は、北京を拠点とする北洋軍閥(北京政府)が国際的に正統な政府として承認されていたが、孫文らは中華民国臨時約法の擁護(護法運動)を掲げ、北京政府に対抗する独自の軍事・政治機構を構築した。この政権は時期によって組織形態や権力構造が異なり、一般的に1917年の第一次、1921年の第二次、1923年の第三次という三つの時期に区分される。最終的に1925年に国民政府へと改組されるまで、中国国民党の基盤形成や、その後の北伐による中国統一に向けた重要な政治的拠点としての役割を果たした。
設立の背景と護法運動
1912年に中華民国が成立した後、初代大総統となった袁世凱は次第に独裁的な権力を強め、帝政を復活させるなどの反動的な政治を行った。袁世凱の死後も、彼が率いていた北洋軍閥の将帥たちが実権を握り、北京政府は彼らの派閥争い(直隷派、安徽派、奉天派など)の舞台となっていた。1917年、北京政府の国務総理であった段祺瑞が臨時約法を破棄し、国会を解散させると、これに反発した孫文は「護法(憲法の擁護)」をスローガンに掲げて南下し、海軍の一部や西南地方の地方軍閥(陸栄廷や唐継尭ら)の支持を取り付けた。こうして広州に集結した旧国会議員らによって非常国会が開かれ、新たな政府の樹立が宣言されたのである。
広東軍政府の変遷
| 時期 | 通称 | 最高指導者 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 1917年 – 1918年 | 第一次広東軍政府(護法軍政府) | 孫文(陸海軍大元帥) | 非常国会の開催、西南軍閥による合議制への改組 |
| 1921年 – 1922年 | 第二次広東軍政府 | 孫文(非常大総統) | 正式な中華民国政府の宣言、陳炯明の反乱(六・一六事変) |
| 1923年 – 1925年 | 第三次広東軍政府 | 孫文(陸海軍大元帥) | 第一次国共合作、黄埔軍官学校の設立 |
第一次軍政府(1917年 – 1918年)
1917年9月、広州において中華民国軍政府(第一次広東軍政府)が樹立され、孫文が陸海軍大元帥に就任した。この政権は「護法軍政府」とも呼ばれる。しかし、政権の軍事的な基盤は広西派の陸栄廷や雲南派の唐継尭といった西南の地方軍閥に依存しており、彼らの目的は自らの勢力圏の維持と拡大であって、孫文が理想とする民主的な全国統一とはかけ離れていた。軍閥たちは孫文の権力集中を嫌い、1918年5月には軍政府の組織改編(大元帥制から7人の総裁による合議制への移行)を強行した。実権を奪われた孫文は失意のうちに広州を去り、上海へと逃れることとなった。これにより第一次軍政府は事実上、西南軍閥の傀儡政権へと変質した。
第二次軍政府(1921年 – 1922年)
上海で雌伏の時を過ごした孫文は、中国革命党を改組して中国国民党を結成するなど、新たな革命運動の準備を進めた。1920年、孫文の支持を受けた陳炯明の軍隊が広州から広西軍閥を駆逐したことで、孫文は広州に帰還を果たした。1921年4月、非常国会は軍政府を廃止して新たに正式な中華民国政府の成立を宣言し、孫文が非常大総統に就任した(第二次広東軍政府)。しかし、武力による北伐(北京政府の打倒)を急ぐ孫文と、広東省を中心とした地方自治の確立(聯省自治)を優先する陳炯明との間で路線対立が表面化した。1922年6月、陳炯明は突如として反旗を翻して総統府を砲撃し(六・一六事変)、孫文は再び広州からの脱出を余儀なくされ、第二次軍政府も崩壊した。
第三次軍政府(1923年 – 1925年)
陳炯明の反乱によって大きな打撃を受けた孫文であったが、他省の軍閥部隊(滇軍や桂軍など)を味方につけ、1923年2月に再び広州を奪回した。ここで陸海軍大元帥大本営が設置され、三度目の政権(第三次広東軍政府)が発足した。この時期の孫文は、過去の失敗から軍閥への依存に限界を感じ、独自の軍隊の創設と強力な大衆政党の必要性を痛感していた。また、ソビエト連邦との接近を図り、「連ソ・容共・扶助工農」という三大政策を打ち出した。1924年1月には中国国民党の第一次全国代表大会が開催され、第一次国共合作が成立した。さらに、自前の革命軍を育成するために黄埔軍官学校が設立され、蔣介石が校長に任命された。これにより、その後の北伐を担う軍事的基盤が確立された。
日本との関わり
広東軍政府の動向は、当時の大日本帝国の対中政策にも複雑な影響を与えた。日本は当初、北京政府(特に親日的な段祺瑞政権など)を中国の正統な中央政府として承認し、借款などを通じて影響力の拡大を図っていた。一方で、孫文は日本亡命時代から犬養毅や頭山満ら日本の民間人や一部の政治家と深い関係を築いており、アジア主義の観点から日本の支援に期待を寄せていた。
大アジア主義と日本の支援の限界
- 孫文の対日工作:日本亡命時代からの人脈を活用した資金や武器援助の要請
- 日本政府の対応:公式には冷淡な態度を維持しつつ、中国国内の分裂状態を自国の権益拡大に利用
- ソ連への接近と関係悪化:第三次政権がソ連の支援を受け入れたことで、日本は「赤化」を警戒し関係が決定的に冷え込む
国民政府への改組とその後
1925年3月、孫文は「革命未だ成らず」という遺言を残して北京で病死した。カリスマ的指導者を失った広東の革命政権であったが、同年7月には大本営が改組され、正式に広州国民政府が成立した。合議制の委員制が採用され、汪兆銘が初代の国民政府常務委員会主席に就任した。この政府は、孫文の遺志を継ぎ、蔣介石を総司令とする国民革命軍を組織して1926年に北伐を開始した。破竹の勢いで進撃した国民革命軍は次々と軍閥を妥当し、1928年にはついに北京を制圧して全国統一(易幟)を成し遂げることとなる。広東軍政府が経験した数々の挫折と再起は、この歴史的偉業の不可欠な準備段階であったと言える。
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