大和朝廷|日本の統一と朝鮮進出への挫折,日本任那

大和朝廷

1世紀前後、邪馬台国に象徴されるように多数の小国への統一の歴史的な流れがあったようにおもわれるが、邪馬台国以降、5世紀の倭の五王の遣使に至るまで、日本のことは中国の史書に記載されておらず、その過程の文献資料は存在しない。しかし、3世紀末には大和朝廷が成立し、遅くとも4世紀中ごろまでには、畿内をはじめとして中部地方から西日本にいたる国土を統一したと考えられている。なお、邪馬台国大和朝廷との関連ははっきりしていない。

近畿地方

大和を中心とする近畿地方は瀬戸内海を通じて大陸の文化をとりいれることができた。弥生時代の銅鐸も多く出土し、中国地方から近畿地方にかけて良質の鉄も得られたことから、鉄器の生産が進み、それにともない豊富な農具や武器も得ることができた。そこでその他の豪族に比べて優位に立つようになり、大和地方は強大な豪族が数多く出て、連合政権である大和朝廷ができた。現在の天皇陛下の前身と考えられる。

大和朝廷による統一

大和朝廷による統一は、各地の原始小国家を征服し、帰服させることによって達成された。『宋書』に収められている倭王武の上表文には、その祖先がみずから先頭に立って東は毛人(蝦夷)、西は衆夷(熊襲)、さらに海北(朝鮮)を平定したと述べている。この記述には信頼性に疑問があるが、大和朝廷の勢力は拡大していったことは間違いないと思われる。

神話

『日本書紀』、『古事記』には、崇神天皇が北陸・東海・山陰(丹波)・山陽(吉備)の四道に将軍を派遣してこれを平定したとされ、また景行天皇の皇子ヤマトタケルノミコト(日本武尊)が熊襲・蝦夷を討ったという伝説が残っている。真偽はさだかではないが、当時、大和朝廷が目指した国土統一が象徴されているとみることができる。

5世紀

5世紀になると、大和朝廷の首長(倭王)は大王と呼ばれるようになる。大和朝廷は、多くの原始小国家にたいし、緩やかな連合国制をなしたと考えられ、征服した原始小国家に対しても、その首長を県主としてそのまま地方の自治や中央政治への参与を認めたと考えらている。

国際情勢

4世紀のなか頃、国土の西側のほとんどを制圧した大和朝廷は、朝鮮半島への進出を行っていた。朝鮮半島では高句麗の勢力の拡大をうけ、南下を試みた。313年には楽浪郡を併合し、中国王朝にかわって北部朝鮮を支配することになる。朝鮮半島の中部・南部においても、三韓諸国の統一の流れは、4世紀に入って、馬韓の諸国が百済によって統一され、百済は帯方郡も併合した。ついで、辰韓の諸国も新羅によって統一され、ここに、半島には高句麗・百済・新羅の3国が開立することになった。

日本任那

『魏志』に、朝鮮南部に産出する鉄をめぐって韓人と倭人が争ってこれを取ったと記されており、その地にはかなり早くから倭人が進出し、とくに加羅(加耶)諸国には倭人の勢力圏が形成されていた。4世紀中ごろを過ぎると、日本は百済と交渉をもち、369年にはその要請に応じて朝鮮に出兵し、新羅を攻めるとともに百済を従属させ、弁韓の地を平定した。大和朝廷は加羅の地域を任那と呼んで支配した。

朝鮮進出と敗退

日本任那を拠点として日本の朝鮮進出はその後も続く。391年から404年にかけては、倭軍(大和朝廷軍)が北進して百済・新羅を破り、高句麗と戦って一時は帯方の境まで進出した。そのことは高句麗の好太王の功績を記した好太王碑文によって知ることができる。しかしながら、最後にはは敗退する。

文化の流入

一説によれば、大和朝廷の朝鮮半島進出は、朝鮮半島南部の鉄、鉄製農工具、農業土木の大和朝廷が日本に入ってきたと言われている。

倭の五王

朝鮮支配が行き詰まった日本は倭の五王[讃(応神、仁徳、履中)・珍(反正か仁徳)・済(允恭)・興(安康)・武(雄略)]とよばれる遣使を中国に派遣し、中国の権威をもって朝鮮支配を強化しようとした。478年、武は、宋の順帝に倭王武の上表文といわれる上表文をたてまつることができたが、562年、任那日本の影響力を失う。

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