前漢|劉邦が築いた古代中国の大帝国,中国史

前漢

前漢(前202-後8)は、劉邦(高祖)が建国した。都は長安におかれ、西漢とも呼ばれる。高祖は封建制度と中央集権の二制度が存在する郡国制を施行したが、やがて地方豪族に圧力がかかり、武帝時代に事実上の中央集権化が達成された。武帝は、匈奴をはじめ周辺民族を服属させ、の全盛期を形成したが、外征による軍事費の増大で財政は窮乏した。武帝の死後国力は衰え、外戚と宦官が台頭し、外戚の王莽に国を奪われて滅亡した。

項羽と劉邦

の末期、多くの反乱が行ったが、その反乱の諸勢力のなかで最後まで残ったのが、旧貴族勢力を代表する楚の貴族出身の項羽と新興勢力を代表する平民出身の劉邦である。を滅ぼしたのち両者は激しく争い、前202年、劉邦が垓下の戦いで、項羽を破り、天下の統一を行った。

高祖

高祖(劉邦)は沛県(江蘇省)の農民出身で統一をした後、高祖と称して皇位についた。位前202~前195である。劉邦は、が厳格な法に基づいた厳しい政治をおこない、旧諸侯や民衆などの反発を招いて滅亡したことを踏まえ、急激な中央集権化をさけて国内をまとめ、租税・力役を軽減して民衆の生活の安定に努めた。

長安

長安(今の西安市)は前漢の都である。前漢(西漢)の高祖(劉邦)によって置かれた。

租税

高祖(劉邦)は民衆の生活の安定と法律を緩和させるため、また法治主義の秦に対する緩和のため、厳しい法律を緩めるとともに租税を軽減を実施した。

郡国制

首都長安を中心とする地域を直轄地として郡県制をしいた一方で、直轄地以外の地は封建制をとりいれて戦功のあった一族功臣を国王に命じた。しかしながら、劉邦とつづく呂后(高祖の皇后)の時代に功臣出身の異姓の諸侯はしだいに滅ぼされていき、呉楚七国の乱以降は、郡県制に一本化される。

血縁支配

高祖(劉邦)は、異性の功臣の諸王を次々に廃し、同族の劉氏に替えて国家体制を整えた。

郷・亭・里

郷・亭・里とは、前漢の郷村組織である。100戸を1里、10里を1亭(1000戸)、10亭を1郷(1万戸)として県に属したというが、その解釈には諸説があり、一定していない。なお、郷・亭・里では人望ある有力者(父老)が、行政・治安・徴税・教化にあたった。

匈奴

前2世紀、秦と度々戦乱があった匈奴は、冒頓単于が出て強大となった。前200年、高祖(劉邦)は白登山(山西省)で戦って敗れ、講和を結び、毎年多額の金品を贈り、消極的な和親策をとった。

呉楚七国の乱

呉楚七国の乱とは、前154年、封建制度体制を敷いた劉氏一族の諸侯の勢力を増し、中央を脅かす存在となったが、第5代文帝・第6代景帝が、諸王の封土を削減しようとしたのがきっかけで起こった戦争である。そのため呉・楚など7国が乱を起こしたが、漢はこれをわずか3カ月で鎮圧し、諸王のほとんどを廃して実質的な郡県制に向かう。

中央集権的官僚支配

第7代武帝になると、郡県制の確立が推し進められ、推恩の令を出して諸王の力を弱めた。全国的に郡県制が確立すると、郷挙里選による中央集権的官僚支配体制が強化され、初めて年号が設定された。

儒教の尊重

武帝は法家思想にもとづく政治を行う一方、儒教を尊重し国教として思想の統一を図り、官吏を採用するにも儒学の教養をもってその資格とした。これより儒教は国家権力と結合しく中国思想において強い影響力を持った。

外交政策:北

武帝は、高祖(劉邦)以来の消極的な対匈奴政策を転向し、将軍の衛青・霍去病(かくきょへい)らに命じ軍隊を送って匈奴を北方に追いやった。さらにオルドスにも勢力を伸ばし、甘粛の地に敦煌(とんこう)などの諸郡を設け、軍隊を駐屯させてその侵入に備えた。

  • 衛青:前漢の武将。前129年以降、7回の匈奴遠征に活躍した。
  • 霍去病:前漢の武将。衛青とともに、匈奴遠征に活躍した。

外交政策:西

西方の大月氏と同盟を結び、匈奴を挟撃するため張騫を西域に派遣した。(前139)途中匈奴に捕らわれ、10余年抑留されたのち脱出して、大月氏に到達したが、大月氏に匈奴との敵対関係を結ぶつもりはなく計画は頓挫した。しかし、これを機に西域の事情が知られるようになり、東西貿易が活性化する。その後、張騫は烏孫にも派遣された。また、武帝は服属を拒否した大宛(フェルガナ)に進行し、匈奴の支配下にあった中央アジアのオアシス都市国家(西域36国)を服属させた。前漢が西域を制することによってシルクロードと呼ばれる交易の導線が活発化した。

外交政策:南

前111、武帝は南越を征服して南海郡の一つとして設置した。インドシナ(ベトナム)東北部まで領土をひろげ、南海などの9郡を置いた。

外交政策:東

前108年、衛氏朝鮮を侵略、朝鮮北部に楽浪郡
、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の4郡を置き直轄地とした。

社会不安

武帝による外征・土木事業・豪奢な生活によってこれまでの皇帝が築いた国家財政が枯渇した。そこで、武帝は、人民への重税、貨幣の改鋳(五銖銭)、塩・鉄・酒の専売、均輸法・平準法による商業統制、位や官の販売、免罪符の販売(罪を犯しても金銭を納める者は罰を免除)を行うが、人民は重税に苦しみ、社会不安は深刻化する。

前漢の衰退

武帝の死後、一時、宣帝によって国家財政の再建に努力が払われたが失敗に終わる。その後、宮廷内部では、凡庸な皇帝が続き、皇帝の擁立などをめぐり外戚と宦官が権力や地方豪族による地方政治の支配により、前漢は衰退していく。

外戚

外戚とは皇后や皇太后の一族のことで、一族がその地位を利用して高位高官についた。

宦官

宦官とは去勢された男性で宮廷の雑用を行った。古代では宮刑に処せられた罪人をあてたが、隋以後、宮刑が廃止され、異人種の作成・外国よりの貢進者などより補充した。みずから去勢し、宦官となる者もいた。ともに天子の側近に仕えるところから、しばしば政治の実権を握り、大きな弊害を生んだ。

均輸法

均輸法は各地方から上納する現物と輸送費を合わせて負担を平均にする法である。政府はこれらの物資を不足している地方に売って国庫の増収を図った。(前115施行)

平準法

均輸法を発展させ、各地で安いときに物資を購入して貯蔵し、高いときに売り出して物価を調節するとともに国庫の増収を図ったものである。(前110施行)

前漢の滅亡

前漢の宮廷内の権力争いは、儒学を巧みに使った外戚の王莽(おうもう)が勝利を占めるが、後8年、前漢を滅ぼしてみずから位につき、国号をと称した。王莽は極端な復古主義者で、『周礼』など儒教の古典にもとづいて官僚制度・貨幣を改めたほか、奴隷の売買を禁じ、全国の土地を国有にし、商業を統制した。

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