五稜郭の戦い
五稜郭の戦いとは、戊辰戦争最後の戦いで、これをもって旧幕府軍の大規模な抵抗は終わる。江戸城無血開城のあと、幕府の海軍として活躍していた榎本武揚は、これに納得できず、新政府軍の対抗のための新政府樹立のため、蝦夷地に向かった。途中、東北で土方歳三と合流し、蝦夷地に向かった。五稜郭を拠点として箱館政府を立ち上げた。箱館政府は、国際法に基づく正式な国家であった。しかし、新政府軍の前に敗北した。土方歳三はこの戦争で戦死したが、榎本武揚は国際法や海軍としての知識が評価され、明治政府の政治家として活躍する。
目次
箱館政府樹立
1868年8月20日、海軍奉行の榎本武揚は軍備を蓄えていた、軍艦4隻と輸送船など計8隻の船を率いて江戸湾を脱走した。1868年9月に仙台で榎本武揚に旧幕府海軍と合流する。さらに諸藩兵を収容し、1868円10月に現在の北海道である蝦夷地に上陸した。新政府の箱館府軍を破り、西洋式の城である五稜郭に入城し、本拠地とした。箱館を制圧すると、すぐさま松前攻略のため出兵した。新選組で活躍した土方歳三は、副隊長としてこのときの松前攻略の指揮をとった。土方らに敗れた松前氏は津軽に敗走することとなる。その後、箱館政府が樹立され、榎本軍の士官以上の参加による選挙で榎本は総裁に選出された。
土方歳三
江戸時代の末、土方歳三は新選組の副長として幕府のために働いたが、江戸末期、朝廷復古の号令を出したことにより、江戸幕府の廃止が決定された。これを受け入れられなかった土方歳三は旧幕府軍として長州藩や薩摩藩を中心とした新政府軍に軍事衝突する。鳥羽伏見の戦いでは近代化された兵器に敗北する。以降近代化された兵器を揃えるが、苦戦を強いられ、敗北を繰り返す。江戸城無血開城の後、それを受け入れられなかった土方歳三は会津戦争に参加するため東北に向かう。東北にて軍事総督就任を要請されたが、その代わりとして、生殺与奪の権利を求めたが受け入れられなかったため、それを断った。その後、榎本武揚の軍に合流する。
箱館政府
1868年12月15日、榎本武揚は明治政府とは別の政権である箱館政府を樹立した。国際法に精通していた榎本武揚によって、箱館政府は国際的に正式な国家であった。東アジアで最初に近代的な国際法の下で作られた国家ともいわれる。この数ヶ月後、箱館に到着した新政府軍と衝突するが、それまでの間、幕府と交流があったフランスの助けを借り、榎本軍の近代化のための軍事訓練が実施された。
五稜郭の陥落
1869年4月9日、新政府軍が箱館に到着すると、榎本軍は、軍艦回天などが宮古湾で新政府軍を攻撃したが、失敗した。一方、新政府軍は続々と兵力を北上させ、五稜郭を包囲する。新政府軍の参謀、黒田了介(清隆)は榎本軍に降伏を勧告するが、榎本武揚はこれを拒否した。
無条件降伏
1869年5月11日の戦闘で箱館を失った旧幕府軍が箱館奪還のため進んだ途中に土方歳三は戦死する。ついに5月18日、旧幕府軍はこの五稜郭の戦い・箱館戦争に無条件降伏し、鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争は終戦する。
榎本武揚
黒田清隆からの降伏勧告に対し、これを拒否した榎本武揚であったが、死を覚悟した榎本はオランダ留学学中に入手した『海律全書』(オランダ語の海上国際法)を黒田清隆に贈った。榎本武揚はオランダ語が話せ、海軍や国際法の知識も深かった。当時は博識の者は限られおり、明治維新を担う数少ない人材である。そこで、黒田清隆は、榎本武揚を新しい日本を担いうる逸材と判断し、榎本処刑に反対、助命嘆願をした。その結果、榎本武揚は助命され明治政府の政治家として活躍した。
旧幕府軍の4隻の軍艦
旧幕府軍の軍艦は、江戸開城のときに勝海舟を通じて新政府と交渉し、幕府が保有していた八隻のうち老朽艦の四隻は明治新政府を渡したが、新しい四隻の軍艦は渡さなかった。その軍艦は、開陽・回天・蟠竜・千代田形の4隻であった。榎本武揚は大坂城内にあった小判を軍艦に積み込み、これがのちに五稜郭の戦いで軍資金として利用された。