中東戦争|パレスチナの地を巡るユダヤとアラブの戦争

中東戦争

中東戦争(1948ー1973)とはパレスチナの地を巡って始まったユダヤ人とアラブ人の戦争である。大きな戦闘は、第1次中東戦争から第4次中東戦争まで四回あったが、小さな戦闘も含めれば無数に繰り広げられた。テロやゲリラ戦が相次ぎ、大量の犠牲者や難民が出た。1993年9月、イスラエルとパレスチナ解放機構がオスロ合意がなされたが、現代もテロが続いており、平和は訪れていない。

目次

ユダヤ人とアラブ人の駆け引き

イスラエルの建国の際、パレスチナの土地をユダヤ人の国家にするか、あるいはアラブ人の国家で外交問題が現れた。発端となったイギリスには第二次世界大戦後、パレスチナをコントロールする力は無く、国際連合は、パレスチナの56%を「ユダヤ国家」に、43%を「アラブ国家」と決め、聖地エルサレムは国際管理地区にする筋道を立てた。

イスラエルの建国

1948年5月14日、初代イスラエル首相ダヴィド・ベングリオンはイスラエルの建国宣言を行い、念願のユダヤ国家の建設にユダヤ人たちは歓喜の声を上げた。

第一次中東戦争

1948年5月15日、イスラエルの建国を認めないアラブ連合軍(エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク)はイスラエルを攻撃。第一次中東戦争が始まった。第一次中東戦争は8ヵ月続き、1949年1月に停戦が成立する。周囲のアラブ諸国は、イスラエルを正式な国家とは認めなかったが、「軍事境界線」が設けられた以上、実質的にイスラエルの存在を認めたこととなる。

イスラエルの勝利

イスラエルは、国連分割決議で割り当てられた地域を上回る地域を占領、その広さは、パレスチナ全土の77%を占めた。パレスチナの残りの地域は、ヨルダンとエジプトが占領し、パレスチナは、事実上、三つに分断される結果となった。

休戦ライン

東エルサレムはトランス・ヨルダンが、西エルサレムはイスラエルが占領して、エルサレム市内を東西に二分する休戦ラインがひかれた。

第二次中東戦争

1956年10月、第二次中東戦争(スエズ戦争)が起こる。エジプトがスエズ運河を国有化したことに対し、運河会社の株の大半を持っていたイギリスとフランスが反発、イスラエルに働きかけて、イギリス、フランス、イスラエルの3カ国がエジプトを攻撃した。米ソが強く反発し、3ヵ国ともまもなく軍隊を撤退させた。

第三次中東戦争

1967年6月5日に始まった第三次中東戦争は、わずか6日間でイスラエルの圧勝に終わったことからイスラエルでは「6日戦争」とも呼ばれる。エジプト、シリアがイスラエルへの軍事的圧力を強めたことに反発したイスラエルが、先制攻撃し、開戦初日に、エジプト空軍機は滑走路を飛び立つこともできずにイスラエル空軍の攻撃を受けて壊滅した。イスラエルは、第三次中東戦争の勝利で、ヨルダン川西岸(ヨルダン領)、ガザ地区とシナイ半島全域(エジプト領)、ゴラン高原(シリア領)を占領した。イスラエルは、ヨルダン川西岸とガザ地区を占領することで、パレスチナの全域を手に入れた。

エルサレム

第三次中東戦争がイスラエル側の終わると、当初、国連が決めた「パレスチナ分割案」のパレスチナの全域をイスラエルが占領したことになる。特にヨルダン川西岸には、聖地エルサレムの全域が含まれ、ユダヤ人にとっての聖地「嘆きの壁」もイスラエルの支配下におかれた。争いを避けるため、どこにも属さないはずとされた「国際管理地域」にまでエルサレムまでの支配が及ぶと、アラブ諸国の反感を強めることになる。

第四次中東戦争

1973年10月6日、第四次中東戦争は、イスラエルの「ヨム・キプル」と呼ばれるユダヤ暦の「贖罪の日」でユダヤ人は24時間の断食をして、外出せずにじっと静かにしている日に始まった。「贖罪の日」にエジプト軍とシリア軍が奇襲攻撃をしかけ、不意をつかれたイスラエル軍は、苦戦を強いられた。まもなく態勢を整え、反撃が成功するものの、第一次中東戦争、第三次中東戦争の快進撃からの侵攻にイスラエルに動揺が走った。

首都エルサレム宣言

エルサレム全域を支配下においたイスラエルは、国連決議を完全に無視し、休戦ラインのバリケードを撤去して、統一された首都と宣言した。さらに、占領下の土地に、ユダヤ人の住宅建設を始め、既成事実を作り上げていく。

パレスチナ難民の発生

中東戦争と紛争により、パレスチナにもともと住んでいたアラブ人たちが土地を追われ、難民民となる。第一次中東戦争によるイスラエル建国で、早くもパレスチナ地域のアラブ人の約3分の2に当たる100万人近くが難民になり、その後も増え続け、計300万人ものパレスチナ難民が周辺諸国に流れ込む結果となった。

中東和平の難航

第4次中東戦争の後、戦争とテロ、難民などに疲れた人々は和平交渉の模索を始める。1979年、エジプトのサダト大統領はイスラエルの生存権を認める。イスラエルを国家として認めるという決断をし、イスラエルに占領されていたシナイ半島の返還が実現した。しかし、そのサダト大統領は、2年後の1981年10月、第四次中東戦争を記念する軍事パレード中に、イスラエルとの和平に反対する軍人によって暗殺されました。
そして1995年11月、今度はイスラエルのラビン首相が、パレスチナ側と和平交渉を行ったことにイスラエルの過激派によって暗殺され、和平交渉が難航した。

パレスチナの投石革命

1987年のイスラエル軍の大型トレーナー事故と武装したイスラエル軍に対してパレスチナ住民が投石を行うという手段で抵抗を始めた。パレスチナのこどもたちが石を投げ、それをイスラエル軍が攻撃する姿がテレビで流れ、国際社会から批判が集まる。

湾岸戦争

アラブ人がパレスチナに定住する権利を求めているパレスチナ解放機構(PLO)はイラク軍がクウェート侵攻し、湾岸戦争がおきると、フセインのイラク軍撤退の条件と引き換えにイスラエル軍のパレスチナ撤退する方針を打ち出したが、これを支持した。パレスチナ解放機構は、クウェートから資金提供を受けていたにもかかわらず、である。クウェートはこのことに激怒し、パレスチナへの経済支援をやめ、その他のアラブ諸国もパレスチナ解放機構との支援をやめた。

和平交渉

イスラエルとパレスチナの代表は、、アメリカの仲介で和平交渉のテーブルにつき、さらに北欧のノルウェーの仲介でオスロ合意が結ばれる。中立の伝統を持つノルウェーのホルスト外相がひそかに仲介に乗り出し、ルウェーの首都オスロで交渉され、1993年9月、パレスチナ自治をめざす合意が成立した。イスラエルが、占領しているパレスチナから順次撤退し、パレスチナ住民の自治を認めた。1993年9月13日、アメリカのクリントン大統領を保証人として、ワシントンのホワイトハウス中庭で合意の調印が行われた。

パレスチナ自治

「オスロ合意」にもとづき、イスラエル軍は、パレスチナの占領地のガザ地区、ヨルダン川西岸などから、撤退した。イスラエル軍が撤退した後、1996年1月、パレスチナ住民による選挙が行われ、国会に当たるパレスチナ立法評議会の議員選挙と、パレスチナ統治機構議長の選挙が行われ、アラファトが議長に選ばれた。対イスラエルへのテロやゲリラ活動を繰り広げてきたPLOの軍事組織が、パレスチナ自治区の警察官として機能した。

オスロ合意

イスラエルとパレスチナ代表がアメリカの仲介で和平交渉を行い、1993年9月、ノルウェーのホルスト外相の仲介で行われたオスロ合意がなされると、和平が大きく進む。9月13日、アメリカのクリントン大統領を保証人としてホワイトハウスにて調印が行われた。

パレスチナ自治

「オスロ合意」に基づき、イスラエル軍は、パレスチナの占領地のガザ地区、ヨルダン川西岸から、次々に撤退した。イスラエル軍が撤退した後、1996年1月、パレスチナ住民による選挙が行われ、国会に当たるパレスチナ立法評議会の議員選挙と、パレスチナ統治機構議長(大統領に当たる)の選挙が行われ、アラファトが議長に選ばれた。