中東和平会議|スペインのマドリードで開催された中東問題解決のための国際会議

中東和平会議 Middle-East Peace Conference

中東和平会議(ちゅうとうわへいかいぎ、英: Middle-East Peace Conference)は、1991年10月にスペインのマドリードで開催された中東問題解決のための国際会議である。マドリード会議とも呼ばれる。中東和平会議は、湾岸戦争後の中東地域における和平プロセスを推進するため、アメリカが主導して行われた。米ソ冷戦の終結と湾岸戦争の影響を受け、アメリカとソ連が共同主催し、イスラエル、アラブ諸国、パレスチナ解放機構(PLO)が参加した初の大規模な平和会議であった。

背景

中東地域は長年にわたり、イスラエルとアラブ諸国の対立が続いてきた。イギリスとフランスが中東から撤退した後、アメリカとソ連がそれぞれイスラエルとアラブ諸国を支援し、地域内での勢力争いが激化した。1990年のイラクのクウェート侵攻と1991年の湾岸戦争により、中東の政治情勢は一層複雑化した。

会議の開催

1991年10月30日から11月1日にかけて、スペインのマドリードで中東和平会議が開催された。この会議は、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領の共同主催で行われた。アメリカのベーカー国務長官は、慎重に各国との根回しを行い、関係国を会議に参加させることに成功した。

参加国と代表

中東和平会議には、アメリカとソ連に加え、イスラエル、エジプト、ヨルダン、レバノン、シリア、そしてパレスチナの代表団が参加した。しかし、パレスチナ代表団にはパレスチナ解放機構(PLO)は含まれず、ヨルダンとの合同代表団としての参加となった。この点が会議の成果に対する一つの制約となった。

アラブ諸国の参加

エジプト、ヨルダン、レバノン、シリアといったアラブ諸国が参加し、特にエジプト以外のアラブ諸国が初めてイスラエルとの直接交渉に臨む点で、この会議は歴史的な意義を持っていた。

パレスチナ代表団

パレスチナ代表団は、ヨルダンとの合同代表団として参加し、イスラエル占領地外のパレスチナ人は含まれなかった。この制限が、会議の実効性に影響を与えた。

会議の進行

会議は、全体会議と二国間交渉に分かれて進行した。全体会議では、米ソ両国が主導し、イスラエルとアラブ諸国が和平の必要性を確認した。二国間交渉では、イスラエルとシリア、レバノン、ヨルダン・パレスチナ合同代表団が具体的な問題を協議した。

成果と限界

エジプトを除くアラブ諸国が初めてイスラエルとの直接交渉に臨むという点で画期的であったが、具体的な成果は乏しかった。当時イスラエルはリクード政権下にあり、交渉は進展しなかった。1992年のイスラエル選挙で和平推進派のイスラエル労働党が政権を取り、1993年9月にはパレスチナ暫定自治協定の成立につながる。

パレスチナ暫定自治協定

1993年9月、アメリカの仲介により、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間でパレスチナ暫定自治協定が締結された。この協定は、パレスチナ人の自治を認めるものであり、中東和平に向けた重要な一歩となった。

その後の展開

中東和平会議の後、1993年にはオスロ合意が成立し、パレスチナ自治政府が発足した。しかし、その後もイスラエルとパレスチナの対立は続き、和平プロセスは度々停滞することになる。特に、1995年にイスラエルのラビン首相が暗殺されるなど、和平に反対する勢力が双方で台頭したことが、和平プロセスを困難にした。

過激派の台頭

パレスチナでは、ハマスやヒズボラといった過激派組織が台頭し、イスラエルとの妥協に反発した。イスラエル側でも、保守強硬派が勢力を増し、和平プロセスに対する反発が強まった。

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