モーリス・メルロ=ポンティ|知覚の現象学,幻影肢,ルビンの杯

モーリス・メルロ=ポンティ  Maurice Merleau-Ponty

メルロ=ポンティ(1908.3.14 – 1961.5.3)はフランスの哲学者で現象学に大きな功績を残した。主著は『知覚の現象学』、『見えるものと見えないもの』、『行動の構造』。サルトルと同士であったメルロ=ポンティは実存が身体をもっていることに注目し、その自発的機能を分析した。知覚の主体である身体を、主体と客体の両面をもつものとしてとらえ、世界を人間の身体から柔軟に考察することを唱えた。身体から離れて対象を思考するのではなく、身体から生み出された知覚を手がかりに、身体そのものと世界を考察した。

メルロポンティ

メルロポンティ

メルロ=ポンティの略年

1908年 フランスに生まれる。
1926年 高等師範学校に入字。サルトル、ボーヴォワールと知リ合う。
1930年 哲学教授の資格試験に合格する
1942年 『行動の構造』出版、身体論を提起。
1945年 『知覚の現象学』を出版。サルトルと『レ-タン-モデルヌ』誌発刊。
1949年 バリ大学文学部の教授に就任する。
1953年 マルクス主義をめぐりサルトルと対立。『レ-タン-モデルヌ』と絶縁。
1959年 『見えるものと見えないもの』
1961年 死去

メルロ=ポンティの生涯

1908年フランスのロシュホール-シュール-メールに生まれる。18歳の時、エコール=ノルマル=シュペリエール(
高等師範学校)に入学し、サルトル、ボーヴォワール、レヴィ=ストロースらと知り合う。ベルグソンの哲学、フッサール現象学、ゲシュタルト心理学などを学ぶ。サルトル・カミュらとも交流があったが、意見の違いから論争をおこした。21歳の時、フッサールの講演を聴講し、現象学に傾注する。以後、現象学の立場から身体論を構想する。37歳の時、主著『知覚の現象学』を出版するとともに、サルトルと『レ-タン-モデルヌ(現代)』誌を発刊する。戦後はパリ大学文学部教授となり、児童心理学・教育学を研究する一方、冷戦激化の状況の中、マルクス主義に幻滅し、サルトルとは決別した。

幻影肢

「幻影肢」とは、手や足を失った患者がその失われた身体の部位に痛みを感じるという身体的感覚のこと。生理学では人間の病理として説明される。メルロ=ポンティは、現象学からこの症状を捉える。説明する。「幻影肢」は病理ではなく、失われた身体は、もはや誰のものでもない。いわば、匿名(幻影)の身体であリ、この痛みの感覚は自己の身体が「匿名性」の性質を有していることに起因するものであると考える。人間の認識や感覚は「身体性」の概念からとらえることができる。

身体

メルロ=ポンティは、「即自」と「対自」の二元論を避けるために「即自と対自の総合」としての、つまり受肉した主体としての身体の哲学を中心に据える。メルロ=ポンティにとっての身体は単なる延長物体としての身体でもなく、心身二元論の構図を超えた身体であり、このような身体のあり方をハイデガーの世界×内×存在と表現する。こうしてメルロ=ポンティハイデガー同様に上空飛翔的思考を排することを決めたのである。

幻影肢と身体性の概念

メルロ=ポンティは身体の身体的存在様式を世界×内×存在とすることによって、世界は身体に対して一挙に自らを開示するのではなく、身体が位置する世界における時間的、空間的な位置に対して形成するパースペクティブに即して自らを現す。身体的主体が世界との関わりを維持するのは自我ではなく、身体が恒常的に世界と結びついているレベルは、むしろ非人格的な人格性以前の層である。身体的主体が世界へと帰属することによって、そこを身体が自らの意図を処理するなじみの場とすることによって、つまり、身体の企投能力によって開かれた有意味性の頒野とする、身体の非人称的層における世界への構成に幻影の基盤を求める。すなわち、幻影肢の患者は、知領域、「われ思う」の層において手の欠損の拒否を支えている。前反省的な「われ」の層、つまり、身体の世界への内属の次元において手の欠損を拒否している。

習慣的身体と現勢的身体

こうした世界への関与の仕方の逆説的な様相を、次の2つの関係として説明する。
ひとつは、習慣的身体である。世界へと投企する一般的な様式の身体への沈殿の層をいい、したがって非人称的な層である。もうひとつは現勢的身体で、意識的な振る舞いのレベルであり、人格的な層である。習慣的身体の層は、現勢的身体の層を支えているのであり、たとえ、現勢的身体の層において、世界へ、あるいは他者へと関わっていても常に習慣的身体の層が付き纏うことによって、身体の一般的な世界への関与を維持している。身体的主体は、言語的主体である。言語が「対象や意味の単なる標識」ではなく、「事物の中に住み込み、意味を運搬する」のは、つまり言葉が意味を自らに内在するのは、身体の所作的意味を土台としているからである。言葉の持つ概念的な意味、つまり、表象することによって把握される、言葉の意味は、身体と世界との結びつきという実存的土台を取り払うことによって、形成されたものである。また、言語には、感情的価値としての「実存的意味」というものであり、それは言葉と外的な関係しかないのではなく、「言葉のうちに住み、言葉と不可分なものとなっている」身体の運動機構のひとつとしての組織された語の音声的、分節的な要素を身体の所作としての作動せしめればよい。

ルビンの杯

ルビンの杯

ルビンの杯

白色の紙の上にこぼれた黒インクのない白色部分が「地」となっている場合は,意識は黒インクに集中し、それが「図」 となって描く図形は「向き合う二人の人間」のように見える。一方、黒インクが「地」となっている場合、意識は黒インクのない白色部分に集中し、それが「図」となって描かれる図形は、「杯」のように見える。人間の知覚は、意識の志向性や視覚が集中する箇所の差異、「地」と「図」の関係の変化、身体の性質(機能)が原因となって、同一の視界が「杯」のようにも見えたり、「向き合う二人の人間」のように見える。これは身体性に起因するものとした。

身体図式

身体図式

身体図式

身体図式とは、状況の変化に応じて、身体の各部位を調整し、行為の任務へ統合していく。たとえば、自転車走行中、その状況の変化に身体はひとりでに反応し、適切な姿勢が生み出される。状況に応じて身体各部位の位置や力のバランスが変換され、その一方で刻々変化する身体は自転車走行というひとつの任務へと統合するもの。

状況内存在

身体図式を介して身体は、その都度の状況とひとつの「系(システム)」をなすが、状況と系をなす身体のあり方を「状況内依存」とよんだ。

状況に拘束される実存

身体に着目して実存主義を捉える時、サルトルが考えるような自由とは様子が変わってくる。なにかを行うとき、我々がなにかを行うのはあくまでも一定の状況の中でしかない。その意味で実存は状況に依存し拘束されている。

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