マムルークの一掃
マムルークの一掃は、エジプトを支配してきたマムルーク軍事貴族層を、総督ムハンマド=アリーが急襲して殲滅した事件である。一般に、カイロ城砦で行われた「マムルーク虐殺」として知られ、オスマン帝国支配下のエジプトで地方軍事勢力を排除し、近代的な中央集権国家を築く出発点となった出来事と位置づけられる。
マムルーク支配とエジプトの混乱
マムルークは、本来は奴隷出身の騎兵軍人でありながら、やがてエジプトで政権を握り、オスマン宗主権のもとで独自の権力を維持していた。彼らは徴税権や土地支配を通じて富を集め、地方ごとにベイと呼ばれる有力者が割拠していた。ところが、ナポレオン率いるフランス軍の侵入や、その後のオスマン軍・イギリス軍の介入により、エジプトは権力の空白状態に陥り、マムルーク勢力と新たに台頭したアルバニア人部隊の指揮官ムハンマド=アリーとの対立が深まっていった。
ムハンマド=アリーの権力基盤強化
総督となったムハンマド=アリーは、オスマン帝国の名目支配を利用しつつも、自らの世襲政権を築くことをめざした。そのためには、地方に独自の武力と財源をもつマムルーク層の存在が最大の障害であった。彼は一方で行政機構を整え、他方でマムルークと妥協を装いながら、その軍事力を削ぐ機会をうかがい、最終的に一挙に排除する決断へと踏み切る。
城砦への招宴と虐殺の経過
マムルークの一掃は、ワッハーブ派討伐遠征の送別行事を名目として、エジプトの有力マムルークをカイロ城砦に招いたことから始まる。祝賀行列が狭い坂道を進んだ瞬間、上方に配置されていたムハンマド=アリー側の兵士が一斉に射撃を開始し、逃げ場を失ったマムルークたちは次々と倒れた。わずかな生存者も城外で追撃され、多くのマムルーク拠点が各地で同時に襲撃されることで、その軍事貴族層は壊滅的打撃を受けた。
エジプト社会への影響
この事件によって、長くエジプト政治を左右してきたマムルークの勢力は急速に消滅し、軍事と財政は総督府に集中した。ムハンマド=アリーは没収した土地や収入を基盤に、常備軍の創設や綿作拡大などの改革を進め、後のイスラーム改革運動やアラブ民族のめざめにもつながる近代化政策の先駆を示したと評価される。他方で、地域社会の有力層が暴力的に排除されたことは、地方自治的な伝統の断絶ともなった。
アラビア政策と国際関係
マムルーク壊滅後、ムハンマド=アリーはオスマン宗主権の名のもとでアラビア半島へ軍を進め、サウード家とワッハーブ派の支配を圧迫した。これは宗教改革運動を掲げる勢力に対抗するものであると同時に、紅海・インド洋航路をめぐる国際政治の一環でもあった。エジプトの軍事的成功は、宗主国であるオスマン本国をも凌ぐ実力を示し、のちに大国がエジプトを重視する外交的理由ともなっていく。
歴史的評価
- 近代的中央集権国家形成の転機となった事件として肯定的に語られる面がある。
- 同時に、大規模な虐殺による権力掌握として、人道的観点から厳しい批判も受ける。
- マムルーク的な軍事貴族支配の終焉と、官僚制・近代軍制への移行を象徴する出来事と理解されている。