ポルポトの革命|メガネをかけていただけで殺される

ポルポトの革命

ポルポトの革命は、中国やソ連の革命を極端な形で実施されたため、悲惨な結果をもたらすことになった。知識層(学者だけでなく教師や文字が読める者、メガネをかけたもの)を粛正し、残った者は、農民として集団農地で働かせた。通貨は廃止され、無謀な農地改革は飢饉を招いた。宗教は認められず、家族は引き裂かれた。3年以上の支配の中でカンボジアは地獄と化した。

ポルポト

ポルポト

市民の追放

カンボジア内戦は、中国の支援を受けたポルポトの軍隊がアメリカを退けることによって終結する。当初は、市民たちは、内戦が終わると、ポル・ポトの軍隊に好感をもっていたが、ブノンペンが陥落した翌日、プノンペン市民200万人は、ひとり残らず市内から追い出された。病人、老人、幼児含めて一切の例外は認められず、市民は自宅を追放された。反抗する者はその場で殺害された。プノンペン市内から各地に向かう道路は、ひたすら歩く市民の列で埋めつくされ、路肩には、死体が放置された。ある試算では、約1.5万人の人がこの行進で死んでいったとされる。

市民に対する敵視

ポル・ポトと共産党員にとって、都市の住民は敵であり、自分たちが農村でアメリカと戦争していた一方で、戦場を逃げ出して都市に逃げ込んだことに強い非難の対象であった。都市から住民を追い出せば、自分たちの地位を脅かす勢力はなく、200万人の市民を農村に追いやることで、新しい農業労働力になるととらえた。

旧住民と新住民

旧住民:農村に住んでいた農民で国民として扱われる
新住民:都市に住んでいた市民で一切権利を剥奪

(新住民を)お前たちを生かしておいても何の得にもならない。死んでも何の損失にもならない。

貨幣の廃止

共産主義社会のため、ポルポトは貨幣を廃止し、すべてを国有化した。

宗教弾圧

カンボジア有数の仏教国であった。国内の寺院は2000を超え、僧侶は八万人いた。国策として仏教が禁止され、寺院は破壊された。僧侶は帰省中や黄色い衣服の怠け者どもと言われ、農業に従事させられた。破壊された寺院は、豚小屋や収穫米の倉庫として使われた。またイスラム教なども同じように弾圧され、信仰は許されなかった。

アンコールワット遺跡

アンコールワット遺跡

医療制度の崩壊

各地方の病院を建設を唱えたが、医者を殺戮対象あるいは農地に送り込み、医療制度が崩壊した。中国の裸足の医者をまねて地方の伝統医療を推奨したが、医療として機能はせず、助かるはずであった人々が死に追いやられた。

教育の廃止

ポルポトは、知識人の抹殺をすすめ、また知識を得る場も作ることをやめた。学校を廃止し、書物を廃棄し、教育者を殺害した。その結果、識字率が低下、ほとんど教育を受けない、肉体労働に従事する人間だけが残ることになる。

共同農場

農地は国有化され、国民は全員が黒い綿の農民服を着せられ共同農場に入れた。所属共同農場での収穫や財産は、すべて国有資産として扱われた。無理な農業政策は飢饉を招いた。無策な人海戦術で堤防や用水施設、ダムの建設が突貫工事が行われたが、専門知識に基づくものでなく、かえって飢饉を広げた。国民は早朝から深夜まで働かされ、食事は与えられず、病気になっても、休憩は与えられなかった。

農業政策の失敗

中国の大躍進政策をベースに農業政策は展開された。指導にあたる共産党員に農業経験者はいなかったため、無謀な方針は中国同様、飢饉が広がることとなった。米の生産量は、1ヘクタール当たり3トン(もみつき)」という目標が掲げられたが、これはカンボジアの平均収量の3倍以上の生産量であったため、これを実現するため、新住民は敵として奴隷としての扱いを受け息絶えた。無茶な農業政策は、米生産の激減をもたらすだけでなく、わずかな農民の食糧用の米も取り上げられ、中国に輸出された。

家族の解体

家族というまとまりは解体され、共同農場の食堂で一緒に食事をとることが義務づけられた。子どもたちは5ー6歳で親から引き離され、「国家の子ども」としての教育を受けた。恋愛は認められず、党が決めた相手と結婚して子どもを産むことを強制された。家族と引き離されたことへの抗議や家族の死を嘆くと、それだけで「反革命」として処罰された。

ポルポト

ポルポト

知識人の処刑

ポルポトの最大の特徴は知識人に対する嫌悪で、ポルポトの革命では、徹底的に迫害されることとなる。学者やメディアの人間はもちろん、中学校を出ているだけで、知識人として抹殺の対象になり、字が書ける者、本が読める者は知識人、メガネをかけているだけで知識人として処刑された。

教育者への処刑

農村に送り込まれた都市住民に対して、「子どもたちの学校を開きたいので、教師をしていた人は名乗り出てください」と呼びかけたが、手を挙げた人たちは、知識人として処刑された。

留学生への処刑

ポルポトは海外の留学生たちに、「祖国のために力を貸してほしい」と呼びかけ、帰国を促した。「祖国の力になろう」と帰国した留学生たちは、空港からそのまま連行され、直ちに全員処刑された。この中には、日本から帰国した二人の留学生も含まれている。

こども兵士

ポルポトにとって、大人は信用することができず、その代わり、こどもに頼るようになる。教育を受けない文字の読めない子どもが活用され、子どもの兵士が銃を持ち、子どもの看守が拷問し、子どもの医者が治療に当たった。

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