ベトナム戦争|アメリカとベトナムの悲惨なる戦争

ベトナム戦争

ベトナム戦争とは中国やソ連の支援を受けた北ベトナムとアメリカ・南ベトナムの戦争である。ゴ・ジン・ジエムに代表される南ベトナムの蛮行やアメリカ軍の無差別爆撃により、ベトナムの支持を失い、ベトナム戦争は泥沼化する。ベトナム戦争の状況が世界中で報道されると、世界中でベトナム反戦運動が起こり、これが決定打としてアメリカ軍はベトナムを撤退した。アメリカ軍、南ベトナム政府軍、南ベトナム民族解放戦線、北ベトナム軍、そして一般民衆合わせて200万人が死亡、450万人が負傷した。

インドシナ戦争

インドシナ戦争とは、フランスに対するホーチーミンによるベトナムの独立戦争である。中国やソ連の援助を受けたベトナムに対して、フランスは敗北し、ジュネーブ協定が結ばれた。その結果、ホーチーミン首相の社会主義体制のベトナム民主共和国とアメリカの支援をうけたゴ・ジン・ジェムのベトナム共和国との冷戦構図できあがった。

ゴ・ジン・ジエムの仏教弾圧

アメリカ・ニュージャージー州のカトリック神学校し、カトリック教徒だったゴ・ジン・ジェムは仏教弾圧を始める。ベトナムは仏教国で、多くの信者がいたため、ゴ・ジン・ジェムは、仏教徒を厳しく弾圧した。敬虔な仏教徒は武器をもつことができず、ハンガーストライキや焼身自殺をすることで抗議の意志を表し、その様子は世界中に放送された。大統領夫人は報道陣の前でバーベキューにすぎないと述べ、さらに世論の反対を買う。

アメリカの失望とクーデター

アメリカは、ゴ・ジン・ジェム大統領の暴挙に失望し、軍幹部に手を回してクーデターが起った。秩序は崩壊し、クーデターは頻出するようになる。住民の支持は失われ、軍の精鋭部隊は激戦地に投入せず、大統領を守るために首都に駐留させるという異常な事態がおこる。

南ベトナム民族解放戦線

1960年12月、南ベトナム民族解放戦線(正式名:ベトナム南部解放民族戦線、以下、解放戦線)が結成され、腐敗した政権に反対する民主化運動を起こした。解放戦線は、ベトナムからの外国の軍隊(アメリカ)の撤退と、独立・平和・中立の南ベトナム政府の樹立を求め、南ベトナムに住む学生、労働者、知識人、民族主義者、共産主義者らで構成されていた。しかし、ベトナム戦争が激化する中で、北ベトナムの傀儡組織と成り下がっていく。

農民の解放戦線支持

南ベトナム民族解放戦線は、農村地帯でのゲリラ活動を展開し、その組織を拡大した。南ベトナム政府の末端組織の村長を暗殺し、農村の行政機関を麻痺させた。ゴ・ジン・ジェム政権の腐敗・弾圧に苦しんだ農民たちは、解放戦線を支持するようになり、解放戦線はその戦力を増していく。当初は、解放戦線は、ソ連、中国という共産主義の手先に過ぎなかったが、南ベトナム国民の支持の拡大に伴い、軍隊へと成長した。

アメリカ人の戦争

1962年、アメリカのケネディ大統領は、1万6000人もの「軍事顧問団」を南ベトナムに送り、南ベトナム軍の訓練・支援を行っていた。あくまでも後方支援という形に徹し、本格参入は行わなかった。しかし、南ベトナム軍は、住民の支持を集め、ジャングルの地でゲリラ戦を展開する解放戦線の前に圧倒的に劣勢になる。1965年、アメリカのジョンソン大統領は、南ベトナム軍の敗戦を見かねて、20万人を超えるアメリカ兵をベトナムに送り込んだ。あくまでも南ベトナム軍の後方支援の立場だったアメリカ軍は、戦線の全面に出るようになり、直接、解放戦線との戦闘を繰り広げた。

ゲリラ戦

解放戦線は、農民の支持を得ながら、ゲリラ戦を繰り広げ、アメリカの軍隊を翻弄していく。熱帯のジャングルが広がり、豊富な水をたくわえた水田地帯のゲリラ戦は、アメリカ兵にとって地獄をみることになる。普段は農作業している民間人がある日突然銃を構えて出てくることもあり、ベトナムの農民とゲリラの区別ができなくなり、また、誰が敵かわからないことから農民に対する無差別射撃や水田の中を戦車が走るなど、さらなる農民の反感を買い、解放戦線の戦力が増していった。

死んだベトナム人は解放戦線ゲリラだと思えばいい

ベトナム戦争に加わった国々

  1. 韓国 (参考:ベトナム戦争での韓国軍
  2. オーストラリア
  3. ニュージーランド
  4. タイ
  5. フィリピン

トンキン湾事件

1964年7月30日、北ベトナムのトンキン湾で、南ベトナム政府軍の船が攻撃し、アメリカはこれを支援したが、北ベトナム軍はアメリカの駆逐艦を攻撃した。2日後に2回目の攻撃を受けた(真偽不明)アメリカのジョンソン大統領はこれを口実にベトナム戦争に本格参戦していく。

北爆

当時、北ベトナムへの爆撃は北爆と呼ばれ、連日、B52爆撃機が北ベトナムの空を攻撃した。はじめは限定攻撃であったが、次第に無差別爆撃に発展していき、北ベトナムや南ベトナムで行われた

南ベトナムの反乱

北爆は、アメリカが想定したように、軍需工場には被害が及ばず、むしろ住民に大きな被害が出ることとなる。そもそも北ベトナムには軍需工場がなく、ソ連や中国から送られてきた兵器(戦車・高射砲・対空ミサイル)を至る所に隠され、小さな部品工場が地下に存在しただけであった。北ベトナムは、アメリカからの爆撃を受ければ受けるほど、反感を持つようになり、南ベトナム内にいる同胞は、解放戦線へ支援を掲げてより好戦的になった。

北ベトナム

北ベトナムは、北爆をきっかけに、南ベトナムで戦う解放戦線への支援を強化していく。また、それまで北からの影響が少なく、独立して動いていた南ベトナム民族解放戦線は、北ベトナムからの膨大な支援を受けて、戦力を強化、次第に北ベトナムの正規軍が南下して、解放戦線と合流していく。解放戦線と北ベトナム軍は連携を強化し、ベトナム戦争の主導権は次第に北ベトナムが持つようになる。

ホーチミン・ルート

北緯17度で南ベトナムと北ベトナムで分けられ非武装地帯となっていたため、北ベトナムはホーチミン・ルートと呼ばれる特殊な補給線を通って解放戦線を軍事支援していた。一部はラオスやカンボジア領域内まで及んだ。

ジャングル

南ベトナム解放戦線は、熱帯のジャングルの中を潜伏してゲリラ戦を展開していた。ジャングルに覆われた大地が、アメリカ軍の上空から捜索を妨げ、上空からの爆撃の効果を限定させた。アメリカ軍はこれに対し、大量の枯れ葉剤を分布し、環境破壊と健康被害をもたらした。(参考:ベトナム戦争で行われた枯れ葉剤の散布

農村破壊

アメリカ軍は、南ベトナムの農村を破壊する戦術をとった。解放戦線の情報が入ると、戦闘機やヘリコプターによる空爆、続いて地上部隊が農民や家族を捕まえ、必要であれば殺し、家屋に火をはなった。このことで南ベトナムは農業国から米の輸入国に転落するほど荒廃し、圧倒的多数の農民を解放戦線の軍人に流れ込むようになる。

テト攻勢

1968年1月30日にテト攻勢と呼ばれる、解放戦線によるベトナム全土で戦闘が起る。大規模な奇襲であったが、アメリカ軍は得意とする都市部での戦闘にすぐに鎮圧した。政治的にはアメリカ本土でベトナム反戦運動の機運が高まり、アメリカ敗北の決定打となった。また、テト攻勢で多くの解放戦線のメンバーが死に、以降、北ベトナムが主導権を握るようになる。

アメリカの反戦運動

テト攻勢、ソンミ村の集団虐殺、南ベトナムの国家警察長官による虐殺によって、アメリカ国内ではベトナム戦争は疑問視されるようになる。アメリカをはじめ全世界でベトナム戦争に対する大規模なベトナム反戦運動が展開され、主要因のひとつなってアメリカは敗北する。

和平交渉

テト攻勢の2ヵ月後、アメリカのジョンソン大統領は、北爆を一時停止し、北ベトナム・解放戦線との和平交渉を始めること、アメリカ軍がベトナムから順次撤退すること、次の大統領選挙に出馬しないことを発表する。ベトナム戦争をエスカレートさせた、ジョンソン大統領の敗北を意味した。

ニクソン大統領

アメリカの大統領は、民主党のジョンソンから、共和党のニクソンに替わりベトナム戦争の撤退を始めた。1969年7月、ベトナム戦争の「ベトナム化」を打ち出し、南ベトナム政府軍が戦闘の主役を引き受け、アメリカ軍は、輸送や補給などを担当しながら、次第に軍隊を撤退させた。このとき、100万人の南ベトナム政府軍を、50万人のアメリカ兵が支えていた状況であった。1200億ドルの戦費が費やされ、経済的にも負担が大きかった。

南ベトナム軍の崩壊

1972年8月、アメリカ軍最後の地上戦闘部隊が、南ベトナムから撤退した。最後まで残った空軍と警備部隊も1973年8月に引き揚げ、アメリカ軍は、すべてを南ベトナム政府軍に託した。アメリカ軍が撤退後も南ベトナム政府軍単独で展開するが、1975年3月、北ベトナム政府軍の全面攻勢が開始されると、南ベトナム政府軍は北ベトナム政府軍に圧倒される。

アメリカ人の脱出

1975年4月29日、サイゴンのタンソニユット国際空港も、砲撃によって使用不能になった。サイゴン市内に、アメリカ軍のラジオ放送によって、季節はずれの『ホワイト・クリスマス』の音楽が流れたが、これを合図に南ベトナム内のアメリカ人は脱出を始める。サイゴンにわずかに残っていたアメリカ大使館関係者と政府関係者は、アメリカ軍が急きょ派遣したヘリコプターでサイゴンから脱出した。そこには長い行列ができ、戦争の敗北とその後の国の壊滅が、世界中のテレビで報道された。

南ベトナムの敗戦

サイゴン市内に北ベトナム政府軍が突入すると、南ベトナム政府軍の兵士たちは、軍服を脱ぎ捨て、軍靴を放り出したまま、群衆の中に逃げ込んだ。敗北を受け入れず戦死する者、自決を選ぶ者もいた。

北ベトナム「南ベトナム解放戦線が南ベトナムを解放した」

1975年、4月30日正午前、解放戦線の旗を掲げた戦車が、サイゴン中心部の大統領官邸に突入した。大統領官邸にわずかに残っていた南の政府高官は降伏し、南ベトナム国は消滅した。サイゴンを攻略したのは北ベトナム政府軍であったが、北ベトナムは、南ベトナム民族解放戦線が南ベトナム政府と戦っていると装っていたため、北ベトナム軍の戦車が解放戦線の旗を掲げ、北ベトナムは、「南ベトナム解放戦線が南ベトナムを解放した」と発表した。

犠牲者

アメリカの戦死者は5万8022人、平均年齢は19歳の若い兵士であった。命かながら帰国した兵士も多くのベトナム人を殺害した者と差別され、赤ちゃん殺しと罵倒された。PTSDなど精神病を患った者も多く、社会復帰できない兵士も少なくない。一方、ベトナム人は190万人、死傷者450万人、ある統計では400万人とも言われている。これにラオスやカンボジアの犠牲者が数十万人が加わる。