フランス革命|世界史,解体するアンシャンレジーム

フランス革命

1789年におこったフランスの市民革命。国王や聖職者、貴族などの支配階級に対し、参政権もなく重税に苦しんでいた市民階級(第三身分)が起こした革命である。絶対王政を中心としたアンシャンレジームを打倒し、自由・平等の理念に基づく近代市民社会を形成した。フランス革命は市民革命のうちのもっとも代表される革命で、近代国家の地盤や民主主義国家の成立に大きな影響を与えた。

革命下のフランス

革命下のフランス

アンシャンレジーム(旧体制)

革命前の政治体制をアンシャン・レジームという。国王を頂点とした封建的身分制度が維持されていたが、市民階級がそれに憤りを感じ、社会の実態と合わない古い土地制度や身分制度を是正しようとしたのがフランス革命である。

封建的特権

特権階級である領主は、免税特権をもち、庶民に対しては貢租(地代)や賦役(無償の労働)を課した。また、領主裁判権も行使できた。こういう封建的な特権を覆すべく、市民が立ち上がり、三部会(3つの身分)で税を負担することになる。

三部会:第一身分、第二身分、第三身分

三部会とは、アンシャン・レジームの下での階級制度で、第一身分、第二身分、第三身分に分けられる。
第一身分(約12万人):聖職者身分。聖職者で全体の0.5%。貴族出身の支配階級であり、大規模な土地を持っていた。
第二身分(約38万人):貴族身分。全人口の1.5%。国王から年金を支給される宮廷貴族、直接的に農民を搾取する地方貴族、官僚として貴族になった法服貴族。
第三身分(約2450万人):平民身分。農民と市民階層からなる。参政権は認められず、税負担も大きかった。

フランス革命の思想背景

ルソージョン・ロックヴォルテールらが啓蒙思想を説き、ホッブズなどの社会契約を中心とした政治哲学を説いた。これらの思想により、封建制度で築かれた階級社会が崩れていき、国民国家の下地が作られるようになった。また、これまで支配的だったキリスト教の権威が崩れていき、法の捉え方も変化していく。

市民

ブルジョワの中でも銀行家や大地主、大商人などの上層のブルジョア、新興商工業者を中心とする中層ブルジョワ、労働者・職人などの下層市民に分かれる。政治的には権利は無かった。上層ブルジョワは、啓蒙思想の影響から自らの能力にふさわしい参政権を求め、中層ブルジョワは制限選挙に基づく議会政治を求め、下層市民は経済的安定と、それを成し遂げる政治を目指して、各々の立場でフランス革命を支持した。

憲法の制定

憲法の設定は自由主義貴族や第三身分の議員が中心になって活躍した。特に、ラファイエット、ダントン、ロベスペールは
ラ=ファイエット(1757~1834):自由主義貴族。アメリカ独立革命に参加。立憲君主制を志向し、フイヤン派を組織した。
ダントン(1759~1794)    :弁護士出身で山岳派右派の中心人物。王政廃止後、法務大臣になる。
ロベスピエール(1758~1794) :弁護士出身。第三身分の議員として山岳派を率いて主導権を掌握する。

フランス革命の憲法

フランス革命の憲法

フランスの不作

フランス革命の経済的な背景として重税だけでなあく、1788年の異常気象による凶作がある。農村を中心に飢饉や穀物の強奪、失業など社会の貧困と不満が蓄積していた。(日本で東北地方の浅間山噴火(1783)が異常気象の一因となったと考える説もある。)このため、当時のフランス全人口の90%を占める農民が、領主の搾取や重税への不満が沸騰し、領主支配の廃止や土地の所有を強く熱望、フランス革命につながっていく。

1789年7月14日朝バスティーユ襲撃

1789年7月14日朝、パリ民衆は廃兵院で武器を奪い.その後、火薬や弾薬を求めてバスティーユに向かった。ここは当時、政治犯の牢獄であり、王政を批判する人々にとっては圧政の象徴でもあった。

1789年5月5日 三部会の召集、6月17日国民議会成立

1615年から休会であった三部会が召集された。第一身分(聖職者)291人、第二身分(貴族)285人、第三身分(平民)578人。その一ヶ月後、国民議会が成立するが、混乱の収束はつかなかった。

1789年6月20日 球戯場の近い(テニスコート)

三部会から離脱した第三身分とそれに同調する第一身分、第二身分の人々は、国民議会を結成し、憲法の制定まで解散しないことを誓った。バイイ、シエイエス、ロベスピエール、ミラボーが中心的役割を担った。

1789年7月14日 バスティーユ牢獄襲撃

パリ民衆は廃兵院で武器を奪い、その後、火薬・弾薬を求めてバスティーユに向かう。ここは当時政治犯の牢獄であり、王政に対し批判的であった人々が弾圧を受けていた。圧政の象徴であったバスティーユ牢獄が襲撃されたため、フランス革命が勢いおw増す。

1789年8月4日封建的特権の廃止選言、8月26日人権宣言の採択

1789年8月4日、封建的特権が廃止され、封建地代の有償が撤廃された。8月26日、人権宣言の採択をおこなわれる。

1789年10月 ヴェルサイユ行進

1789年10月、食料の高騰に苦しむパリ市民は女性を戦闘にヴェルサイユに向かい、翌日国王一家をパリに連行した。

1793年1月 ルイ16世の処刑

ルイ16世は財政問題の行き詰まりから三部会の招集を認めたが、政治的無策で革命に対処できず、最後は、革命広場でギロチンにかけられた。「余を死にいたらしめた者を許す」が最後の言葉だと言われている。

1793年 マリ=アントワネット

オーストリアのマリア=テレジアの娘で.ルイ16世の后。浪費家の象徴的存在となる。1791年、国王をうながし、家族とともに国外逃亡を企てるが失敗。のちにオーストリアが革命への干渉を宣言すると、反革命運動の中心とみなされ、1793年に処刑された。4人の子どものうち、次男は父王処刑によりルイ17世となったが、幽閉され病死したとされる。

1793年 ヴァンデーの反乱

革命の余波はパリだけではなく地方にも移る。フランス西部のヴァンデーは王党派、カトリック勢力が強い農村地帯で保守的なところであった、農民たちは1793年3月に徴兵制に反対し反乱をおこした。しかし.同年末までに鎮圧され、革命の美名のもとに民衆が民衆を虐殺する残忍な事件となった。