パスカル|モラリスト,数学,物理学

ブレーズ・パスカル Blaise Pascal 1623年6月19日 – 1662年8月19日

パスカルは、フランスの数学者・物理学者・宗教哲学者。代表的なモラリスト。主著は『パンセ』。1632年の法服貴族の家庭で生まれ、身体は弱く虚弱体質であった。数学・物理学で才能発揮し、『円錐曲線試論』、『真空に関する新実験』を発表、30歳で自身の名前が冠した「パスカルの原理」や水圧の原理である「パスカルの定理」などを発表し、自然科学の分野で多大なる業績を残した。気圧の単位ヘクトパスカルは、パスカルの名前に由来する。宗教哲学の分野では、「人間は考える葦」であるという有名な言葉を残し、偉大さと悲惨さの相反する二面性を有する人間の尊厳を称えた言葉を残した。1662年、39歳でこの世をさるが、その後、1669年に『パンセ』(瞑想録)が発表される。

パスカル

パスカル

パスカルの生涯

パスカルは、1623年、フランスの法服貴族の家に生まれる。2歳のころに重い病気にかかり、虚弱な体質となる。翌年、母を亡くし、8歳のころに父親の仕事でパリに転住する。こうした環境の中でパスカルに孤独と思索を好む体質がついた。幼少から数学や物理学に天才を発揮し、12歳で自力で三角形の内角の和が2直角であることを証明、16歳で『円錐曲線試論』を発表する。24歳のとき『真空に関する新実験』を発表し、30歳で「パスカルの定理」を発表する。その他、水圧の原理である「パスカルの原理」など、自然科学の分野で業績を残した。23歳のときに、カトリックの禁欲的な一派で、人間の原罪と神の恩寵を強調するジャンセニズム(キリスト教の一派)に1回目の帰依をした。31歳のときに、宗教的な法悦の中で神に出会う「決定的回心」という宗教的体験をしたのをきっかけにポールロワイヤル修道院で信仰生活に晩年を捧げた。禁欲的なジャンセニズムとイエズス会との論戦中で、匿名の手紙を18通発表し(『プロガァンシアル』)、イエズス会の世俗的な腐敗を批判した。病が重くなる中で信仰を深め、人びとを信仰に導くためのキリスト教弁証論を書こうとしたが、39歳で死去した。死後、その断片的原稿が『パンセ』として出版された。

パスカルの略年

1623年 フランスのクレルモンで出生
1625年 重病に罹患。
1639年 「円錐曲線試論」発表
1647年 デカルトに出会う
      「真空に関する新実験」、『流体平衡論』、『空気の重さについて』
1653年 「パスカルの原理」提唱
1654年 「決定的回心」からポールロワイヤル修道院に属する
1662年 死去
1669年 『パンセ』発表

パスカルの自然科学への業績

パスカルは、物理学や数学に才能を発揮し、偉大なる業績を残した。自らの名を冠した「パスカルの定理」や水圧の原理である「パスカルの原理」は水圧機や油圧機などで現代でも広く応用されている。また、SI単位と要ばれる国際的な圧力の単位として、1 Pa(1 パスカル)とされているなど、彼の名が単位になっている。

パスカルの原理

パスカルの原理とは、密封された容器の中の水(油)に圧力を加えると、その水(油)すべてに同じ大きさの圧力が加わるという原理である。

「人間は考える葦である」パスカル

人間の尊厳を称えるパスカルの言葉。大きな宇宙の中で孤独で無力な人間であるが、自身がいかに悲惨であるか、無力で孤独であるか、そして自身の死すら自ら考えることができる。パスカルは、この悲惨であるが、しかし考えることができる人間、つまり「考える葦」に近代的な思考する主体としての尊厳の根拠を見出した。

「この宇宙の沈黙は私を震撼させる」パスカル

「空間によって宇宙は私を包み。一つの点のように飲みこむ。考えることによって、私は宇宙を包む」(『パンセ』パスカル)。

繊細な精神と幾何学的精神

パスカルは、必然性にとらわれない人間の微妙な心の動きを、心情の論理に従って直感する精神を「繊細な精神」という言葉で表した。これに対して、数学や物理学において、必然性を持ち、理性の論理に従い、推理と論証によって思考する精神を「幾何学的精神」と呼んだ。24歳のころ、デカルトに出会うが後に『パンセ』では、デカルトは「幾何学的精神」があるが、「繊細な精神がかけている」として批判的に扱っている。

もしすべてを理性に従わせるならば、われわれの宗教には神秘的、超自然的なものが何もなくなるだろう。もし理性の原理に反するならば、われわれの宗教は不条理で、笑うべきものになるだろう。

私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中でできることなら神なしですませたいと思っただろう。

気晴らし

パスカルは、偉大さと悲惨さを兼ね備えた中間者としての人間は、しばしば死・孤独・無知など自己の悲惨さから目をそむけ、遊びや娯楽、そして戦争などに熱中して気持ちを紛らわせようとする。もっといえば、労働もまた気晴らしである。しかし、自己から目をそむけて気晴らしに逃避しても やがては怠慢にとらわれて絶望や悲哀に落ちこむことになる。パスカルは社交生活を過ごしたことがあるが、いい印象は待たなかった。

「気晴らし、人間は死、悲惨、無知を癒やすことができなかったので、自分を幸福にするためにそれらをあえて考えないように工夫した」(『パンセ』パスカル)。

数ヶ月前、一人息子に先立たれ、そのうえ訴訟や争いごとで打ちひしがれ、さっきまで悩んでいたあの男は、いまは不幸なことを考えていないのはなぜか。驚くことは何もない。男は犬が六時間前から駆り出そうとしているイノシシが、どこにあらわれるか、いまかいまかと待ち受けているからだ。たかがこれだけのことで、それ以上はいらないのだ。人間というものはどれほど悲しみでいっぱいでも、気晴らしになることに引き込まれたら幸せになれるのだ。(『パンセ』パスカル)

三つの秩序によるキリストの救い

パスカルは、人間の生には、身体・精神・愛の三つの秩序があるとした。権力や快楽にふける人は物質的な「身体の秩序」に、学問や思索に専念する人は「精神の秩序」に、神の恩龍に恵まれた入は「愛の秩序」に生きている。パスカルによれば、イエス=キリストがこの世に貧しく惨めな姿であらわれ、地上の苦悩と悲惨さの中で神の愛を説いたのは、この物質と精神の秩序を超えたところに超自然的な愛の秩序があることを示すためである。キリスト教は、人間の悲惨さを見つめさせるとともに、それをこえた神の永遠の愛の秩序を教える。

『パンセ』パスカル

『パンセ』(『瞑想録』)。パンセとは、フランス語で考えること・思考という意味。人びとを信仰へと導くためのキリスト教弁証論として書き始められ、死後にその断片的な原稿が友人によって編纂され出版された。

『パンセ』からの引用

もし、クレオパトラの鼻がもう少し低ければ、世界は変わっていただろう。

世界の虚しさについて書かれた。歴史というのはほんの小さな原因で大きくかわってしまう。

タイトルとURLをコピーしました