パキスタン決議
パキスタン決議は、1940年3月にパンジャーブ地方の都市ラホールで開催された全インド=イスラム連盟の大会で採択された政治決議である。公式には「ラホール決議」と呼ばれたが、のちにムスリム独立国家構想の象徴として「パキスタン決議」と称されるようになった。この決議は、インド亜大陸におけるムスリム多数地域をまとめて独立した「諸国家」とする構想を打ち出し、最終的にパキスタン建国へとつながる重要な転換点となった。
歴史的背景
19世紀後半以降、英領インドではインド人エリート層を中心に民族運動が高まり、ヒンドゥー系のインド国民会議とムスリム系エリートを基盤とする全インド=イスラム連盟が政治の二大勢力となった。第一次世界大戦後、1919年の改正インド統治法や、1935年の新インド統治法によって自治が徐々に拡大したが、ヒンドゥー多数派のもとでムスリムが政治的に不利になるのではないかという不安が強まった。1930年代には連盟指導者ジンナーらが「ヒンドゥーとムスリムは異なる二つの民族である」とする二民族理論を強調し、統一インドの枠内で少数派保護を追求する路線から、領土的分離を志向する方向へと傾いていった。
英印円卓会議と1937年選挙の影響
1930年代初頭に開かれた英印円卓会議では、将来のインド憲法や自治拡大が議論されたが、ムスリム側は自らの地位が十分に保障されないと感じた。また1937年の州選挙では国民会議派が多くの州で勝利し、ムスリム人口が少ない地域では連盟がほとんど議席を獲得できなかった。この結果、ムスリムの政治的代表としての全インド=イスラム連盟の立場は弱まり、ヒンドゥー多数派による中央集権国家が実現した場合、ムスリムが周縁化されるとの危機感がさらに高まった。こうした行き詰まりと不安が、パキスタン決議へ向かう思想的・政治的土壌となったのである。
ラホール大会と決議採択の経過
1940年3月22〜24日、全インド=イスラム連盟はラホールで年次大会を開催した。大会では、ベンガルの政治家ファズルル・ハックが決議案を提出し、ジンナーや他のムスリム指導者がこれを支持した。決議案は激しい討議を経て採択され、これにより連盟は公式に、ムスリム多数地域を切り出して独立する構想を掲げることになった。決議文そのものには「パキスタン」という語は記されていなかったが、同時期にムスリム知識人の間で広まっていたムスリム国家構想と結びつき、のちに「パキスタン決議」と総称されるようになった。
パキスタン決議の内容
パキスタン決議の要点は、インド亜大陸におけるムスリム多数地域を「地理的に連続した単位」にまとめ、その地域において「独立した諸国家」を形成すべきであると主張した点にある。これらの国家は構成単位ごとに自治と主権を有するとされ、中央権力による一方的支配ではなく、地方単位の大きな権限が前提とされた。
- パンジャーブ、シンド、バローチスターン、北西辺境州など北西インドのムスリム多数地域と、ベンガル・アッサム東部のムスリム多数地域を特別な政治単位として扱うこと
- これら地域を再編成し、将来的に「独立した諸国家」として認めること
- 新国家内部では、ムスリム以外の宗教・民族少数派の権利と安全を憲法によって保障すること
- イギリスやヒンドゥー側に対して、憲法改正・政体変更の際にはムスリムの同意を不可欠とすること
インド民族運動との対立
国民会議派を中心とするインド民族運動は、ガンディーやネルーらの指導のもと、統一されたインド国家とプールナ=スワラージ(完全独立)を目標としていた。これに対し、パキスタン決議は、インドを宗教別の国家へと分割する構想を提示したため、国民会議派は強く反発した。ガンディーは、ヒンドゥーとムスリムは同じ祖国を共有すべきであり「インドの分割」は認められないと主張し、決議を「国の分断」への一歩として批判した。この理念的対立は、その後の交渉や運動を通じて解消されることなく残り、インド独立過程のなかで亀裂を深めていくことになる。
第二次世界大戦と交渉の行き詰まり
第二次世界大戦中、イギリスはインドの協力を得るために自治拡大や独立の可能性を示唆したが、国民会議派と全インド=イスラム連盟は、それぞれ異なる条件を提示した。国民会議派が統一インドの前提で交渉しようとしたのに対し、連盟はパキスタン決議を踏まえてムスリム国家構想を譲らず、両者の妥協は困難であった。戦後に行われた英印交渉や内閣使節団の提案でも、統一連邦案と分離独立案の折り合いがつかず、最終的に分割独立へと進む方向が強まっていった。
パキスタン建国への道
戦後の情勢悪化のなかで、全インド=イスラム連盟はパキスタン決議を根拠としてムスリム国家の早期実現を求め、運動を激化させた。1947年、イギリスはインドからの撤退と分割を決定し、ヒンドゥー多数地域を中心とするインド連邦と、ムスリム多数地域からなるパキスタンの2国家が成立した。新国家パキスタンは、北西部諸州とベンガル東部(のちのバングラデシュ)から構成され、その成立理念の根底には、ラホールで採択されたパキスタン決議があったと理解されている。
その後の評価と歴史的意義
パキスタン決議は、インド亜大陸の政治地図を大きく変えた出発点として評価される一方で、宗教の違いを国家境界と結びつけた点で多くの議論を呼んできた。パキスタン側では建国理念を示した「原点」として肯定的に語られる一方、インド側では分割と大規模な難民移動、暴力的衝突の悲劇をもたらした契機として批判されることも多い。それでもなお、この決議がムスリムの集団的自己決定の要求を政治的形態に結晶させ、イギリス帝国支配の終焉とともに新たな国家構造を生み出したことは否定できず、20世紀世界史、とくに南アジアの国民国家形成を理解する上で欠かすことのできない出来事である。
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