ニザーム=ジェディット|セリム3世の常備軍改革

ニザーム=ジェディット

ニザーム=ジェディットは、オスマン帝国のスルタン、セリム3世が18世紀末から19世紀初頭にかけて推進した軍事・財政・行政の総合的改革である。名称はオスマン語で「新しい秩序」を意味し、ロシアやオーストリアとの戦争で劣勢に立たされたオスマン帝国が、ヨーロッパ式の常備軍と官僚制度を導入して国家の再建を図ろうとした試みを指す。とりわけ西欧式の新軍編制を中心とした軍制改革を指す狭義の用法と、財政・行政を含む広義の用法があり、近代トルコ史における最初期の本格的な近代化政策として位置づけられる。

成立の背景

18世紀後半のオスマン帝国は、露土戦争やオーストリアとの戦争に連敗し、黒海・バルカン方面で国土を失い続けていた。旧来のイェニチェリ軍団は規律の弛緩と腐敗が進み、戦場ではヨーロッパ諸国の線列歩兵や近代砲兵に太刀打ちできなくなっていた。即位したセリム3世は、この軍事的後進性こそが帝国衰退の根本原因であると考え、西欧列強、とくにフランスの制度を研究させた。その結果として構想されたのがニザーム=ジェディットであり、軍事改革を梃子に帝国全体を再編しようとする壮大な計画であった。

新制度軍と軍事改革

軍事面でのニザーム=ジェディットの核心は、西欧式装備と戦術を備えた新軍の創設であった。新制度軍は銃・砲で武装した歩兵を中心とする常備軍として編制され、フランス人などヨーロッパ出身の軍事顧問を招いて教練がおこなわれた。訓練では一斉射撃と隊列運動が重視され、制服・軍楽隊・軍旗など象徴的な要素も整備された。さらに、士官養成のための軍学校や砲兵学校も拡充され、後のタンズィマート期に活躍する軍人・官僚層の母体が形成された。一方で、特権を持つイェニチェリ軍団は新制度軍の創設を自らの利害への脅威とみなし、強い敵意を抱くようになった。

財政・行政改革と新税制

ニザーム=ジェディットは軍事改革にとどまらず、その維持費を賄うための財政・行政改革も含んでいた。セリム3世は新軍専用の財源として「イラード=イ=ジェディット(新歳入)」と呼ばれる特別会計を設け、従来の徴税請負制を見直して中央政府への収入集中を図った。また、属州支配において地方有力者アーヤーンの影響力を抑え、首都イスタンブルの官僚機構による統制を強めようとした。これらの施策は、伝統的な権益を持つ地方勢力や宮廷貴族の反発を招きつつも、のちの近代的官僚制の基盤を準備した点で重要である。

外交・文化面での新機軸

ニザーム=ジェディットのもとで、外交・文化面でも新しい試みが始められた。セリム3世はヨーロッパ主要都市に常駐大使を派遣し、フランス革命やナポレオン戦争後の国際情勢を継続的に情報収集させた。西欧の軍事技術だけでなく、政治思想や行政制度に関する報告も首都に送られ、帝国エリート層の世界認識を大きく変化させた。また、印刷技術や翻訳事業も奨励され、一部の知識人はヨーロッパ語文献から啓蒙思想や国際法の概念を学ぶようになった。軍楽隊の洋式化や建築・服飾の変化も進み、宮廷文化の面でも「新しい秩序」が可視化された。

保守勢力の抵抗と崩壊

しかし、このような改革は、既得権をもつ勢力の激しい抵抗を招いた。とくにイェニチェリ軍団や宗教権威であるウラマーは、新制度軍と新税制を自らの特権への侵害とみなし、「イスラームの伝統に反する西欧模倣」であると批判した。地方のアーヤーンも中央集権化に反対し、宮廷内の反対派と結びついてクーデタを画策した。1807年、イェニチェリを中心とする反乱が勃発し、セリム3世は廃位され、ニザーム=ジェディットは短命に終わった。この事件は、改革を推進するためには旧秩序の軍事力そのものを解体しなければならないという教訓を後継者に残した。

タンズィマートへの歴史的意義

ニザーム=ジェディット自体は挫折したが、その経験は後続のマフムト2世やタンズィマート期改革に大きな影響を与えた。マフムト2世は1826年に「至福の事件」と呼ばれるクーデタでイェニチェリ軍団を武力解体し、本格的な西欧式軍隊の創設に成功したが、その際に参照されたのがセリム3世時代の新制度軍の経験であった。また、新会計や中央集権的行政の構想も、19世紀中葉のギュルハネ勅令以後に制度化されていく。したがって、ニザーム=ジェディットは、イスラーム帝国がヨーロッパの軍事・行政モデルを選択的に受容しつつ近代国家へと変容していく長い過程の出発点として評価される。

ニザーム=ジェディット研究の視点

今日の歴史研究では、ニザーム=ジェディットを単なる「西欧化」か「伝統の破壊」としてではなく、イスラーム法やスルタン権威といった固有の制度を前提にしながら、新たな軍事・財政技術を取り入れようとした折衷的な試みとして理解しようとする視点が強まっている。改革に参加した軍人・官僚・知識人のネットワークは、その後のタンズィマート改革や青年トルコ人運動にもつながり、帝国内部から生まれた近代化の潮流を示す手がかりとなる。オスマン帝国の近代史を理解するうえで、ニザーム=ジェディットは、外圧だけでなく内発的な改革志向が存在したことを示す重要な事例である。