チャールズ1世
チャールズ1世は17世紀前半のイングランド・スコットランド・アイルランドの国王であり、議会との深刻な対立から内戦と処刑に至った君主である。父ジェームズ1世から継承したステュアート朝の王権を強化しようとしたが、王権神授説にもとづく専制的な統治姿勢と、宗教・財政をめぐる政策が広範な反発を招き、ついには「国王裁判」と公開処刑という前例のない結末を迎えた人物である。その治世は、後のイギリス革命や立憲主義的な政治体制の成立を考えるうえで重要な転換点となっている。
出生と即位
チャールズ1世は1600年、スコットランド王ジェームズ6世(のちのイングランド王ジェームズ1世)の次男として生まれた。兄ヘンリー王子の死去により王位継承者となり、1603年に父がイングランド王位を継ぎ、イングランドとスコットランドの同君連合が成立すると、彼も両王国の王子として育てられた。1625年、ジェームズ1世の死去にともないイングランド王チャールズ1世として即位し、同時にスコットランド王も兼ねた。彼はフランス王家出身のカトリック王女アンリetta・マリアと結婚し、この婚姻は外交的にはフランスとの関係強化を意図したものだったが、国内のプロテスタント勢力にはカトリック化への不安を呼び起こした。
王権神授説と政治姿勢
チャールズ1世は、王権は神から直接授けられるとする王権神授説を強く信奉し、国王の権威を制限しようとする議会に根本的な不信感を抱いていた。彼は戦費や宮廷費用を賄うために新税や関税(トン税・ポンド税)、さらには船舶税のような従来は沿岸防衛に限定されていた負担を全国に拡大するなど、議会の同意を得ない課税を試みた。これに対し1628年の議会は「権利の請願」を提出し、恣意的な課税や人身の自由の侵害に抗議したが、チャールズ1世は翌年に議会を解散し、以後11年間にわたり議会を召集しない「専制の11年間」と呼ばれる統治を行った。
宗教政策と国内対立
チャールズ1世の宗教政策も対立を激化させた。彼はカンタベリー大主教ラッドらとともに、イングランド国教会の儀礼を華美にし、教会の権威を強める方向で改革を進めたが、これは簡素な礼拝と厳格な教義を求めるピューリタン(清教徒)から強く非難された。さらにスコットランドに対して国教会式の祈祷書を押しつけたことで「主教戦争」が起こり、王は軍事費を捻出するために久しく避けていた議会の召集を余儀なくされる。1640年に開かれた短期議会はすぐに解散されたが、続く長期議会では国王側近ストラフォード伯の弾劾や宗教改革の推進など、王権の制限を求める動きが一気に強まった。
イングランド内戦の勃発
議会が王政批判を強めるなかで、チャールズ1世は1642年、下院の有力議員の逮捕を試みて失敗し、両者の対立は武力衝突へと発展した。こうして王党派(騎士党)と議会派(円頂党)に分かれてイングランド内戦が始まる。初期には王党派が騎兵を中心に優勢であったが、やがて議会派はクロムウェルらの主導でNew Model Armyと呼ばれる常備軍を創設し、1644年のマーストン・ムーアの戦い、1645年のネイズビーの戦いなどで次第に主導権を握った。1646年、チャールズ1世はついにスコットランド軍に投降し、その後イングランド議会へ身柄が引き渡されることになる。
第二次内戦と国王裁判
しかしチャールズ1世はなおも王権回復をあきらめず、議会内の穏健派との交渉やスコットランドとの密約を通じて、王党派再起を企図した。その結果1648年には第二次内戦が勃発し、これは急進的な議会派や軍隊のあいだで、国王の存在そのものを脅威とみなす言説を強める契機となった。軍は「プライドのパージ」と呼ばれる行動で穏健派議員を排除し、「残部議会」は国王を裁く特別法廷の設置を決定した。1649年の裁判でチャールズ1世は反逆罪で有罪とされ、彼自身は「いかなる世俗の裁判所も王を裁く権限はない」と主張して審理の正当性を認めなかったが、判決は覆らなかった。
処刑と王政の廃止
1649年1月30日、チャールズ1世はロンドンのホワイトホール宮殿前で公開処刑され、首を刎ねられた。現職の国王が自国の裁判所によって処刑されるという出来事は、ヨーロッパ史上ほとんど前例がなく、 contemporaries にとっても衝撃的な事件であった。処刑後、残部議会は君主制と上院の廃止を宣言し、イングランドは共和政の「コモンウェルス(Commonwealth)」へ移行する。王党派にとってチャールズ1世は殉教者として記憶され、「王太子」チャールズはのちに大陸へ亡命し、王党派の抵抗運動はその後も続いた。
歴史的評価と意義
チャールズ1世に対する評価は、時代や立場によって大きく分かれる。一方では、議会の権利を無視し、財政運営にも失敗した無能な専制君主とみなされ、他方では王権と教会の伝統を守ろうとして倒れた「王制の殉教者」として描かれてきた。いずれにせよ彼の治世とその悲劇的な結末は、王権と議会、信仰と自由、国家と臣民の関係をめぐる激しい議論を生み出し、その後の清教徒革命や「名誉革命」を経て成立した立憲君主制の基盤を形づくったと評価される。ステュアート朝の歴史においても、ジェームズ1世からチャールズ2世へと続く王政復古までの激動期の中心に位置する人物であり、近世ヨーロッパの国家形成と宗教対立の象徴的存在として、現在も歴史研究の重要な対象となっている。