スパルタ|軍事と規律を徹底した古代都市

スパルタ

スパルタは、古代ギリシアのペロポネソス半島南部に位置した都市国家である。前1000年ころ、ドーリア人の一派がペロポネソス半島南部ラコニアに侵入して先住民を征服し、やがて自分たちだけが集住した。伝説的な建国者ラケダイモンにちなみラケダイモーンとも呼ばれ、厳格な軍事制度と独特の社会構造で知られた。都市を取り囲む高地とエウロータス川の流域という地理的条件を活かしながら、スパルタの人々は外敵の侵入を防ぎ、少数で多数の被征服民を支配しなくてはならないために、常に戦時下にあるような厳しい社会体制を作り上げていった。

歴史的背景

伝承によれば、スパルタはドーリア人の侵入によって建設されたとされる。紀元前8世紀頃にはペリオイコイやヘイロータイを支配下に置く体制を確立し、大きく勢力を伸ばしていった。周辺地域との長い抗争を経て、最終的にはペロポネソス半島内の多くを従えた強力な同盟網を築き上げる。ペルシア戦争では狭義のギリシアを救う立役者として活躍し、後のアテナイとのペロポネソス戦争でも勝利を収め、一時的にギリシア世界の覇権を握るに至った。しかし、紀元前4世紀頃からマケドニアの台頭や内部の衰退により影響力を失い、ヘレニズム期には以前のような覇者の地位を保てなくなっていった。

リュクルゴス

リュクルゴス(前8~前7世紀?)は伝説の立法者である。スパルタ制度を作り上げたと信じられていた。

階級

スパルタには2人の王と市民(貴族)、ペリオイコイ、ヘロットの3つの身分の人々がいた。前4世紀半には、1500人から2000人の市民(貴族)が2万人のペリオイコイ(半自由民)、5万人のヘイロタイ(隷農)を支配していたと推測される。

スパルタは王政をとっていた。二つの王家があり、両方から1名ずつの王を出すことになっていたが、権力としては弱く、主として軍隊の最高指揮官であり、また神官として宗教的役割を担う存在であった。

市民(貴族)

スパルタ人は完全な市民権で支配権をもつ身分であった。2人の王がいたものの、実質的には貴族政で、市民は平等者と呼ばれる。平等者は政治と軍事に専念し、所有地は隷属民に耕作させた。男子は7歳から集団訓練をおこなって戦闘性と耐久力をやしない、市民は常に共同食事をとって連帯感をつちかった。贅沢や娯楽は禁じられ、貧富の差を生じさせぬために、国内での貴金属貨幣の使用も禁じられた。30歳以上の市民が民会を構成し、王を含む30人の長老会が指導権をもち、エフォロイという任期1年の役人団が行政をおこなった。

ペリオイコイ(半自由民)

第2身分はペリオイコイ(半自由民)と呼ばれ、土地をもち、商業や手工業にもたずさわった。重装歩兵にも召集されるが、参政権は与えられなかった。彼らは、侵入したドーリア人の一部だとも、征服された先住民であるともいわれる。

ヘイロタイ

第3身分がヘイロタイと呼ばれ、スパルタに抵抗して征服された隷属民である。スパルタ市民の土地に分属させられ、貢納の義務を負わされた。しかしヘイロタイは自分たちの集落と家族をもち、財産も有していたから、奴隷とはことなる隷属農民であった。スパルタ人はヘイロタイの反乱を常に恐れ、エフォロイは就任時には彼らに形式上宣戦を布告した。実際に有力なヘイロタイを殺害することがスパルタ人の間で奨励されたほどである。

民会

30歳以上の男性スパルタ人で構成された。民会で提案するのは王、長老、監督官に限られており、一般市民は演説することも許されず、ただ、提案に賛否を表明するだけであった。

長老会

長老会は王を補佐する機関で、60歳以上の男性市民の中から民会で選挙された38歳の長老(終身制)と2名の王で構成され、民会に提出する議案をあらかじめ審議することや、刑事事件の裁判が主たる任務であった。

監督官

監督官の任期は1年で民会により選出された。スパルタ市民の利益や意思を代表する立場であった。前5世紀に入ると5名の監督官が王の行動を監視し、行政、裁判、外交、軍事までの責任を担うようになる。

社会と階級

スパルタ社会は厳格な身分制度で成り立っていた。支配階級であるスパルティアタイ(完全市民)は政治や軍事の要職を担い、全体のごく一部を占める特権層だった。一方、ペリオイコイと呼ばれる周辺民は主に商工業や農業を担当し、政治参加こそ制限されたが、軍役や一定の自由も認められた。さらに最下層には農耕労働などを強いられる隷属民ヘイロータイが存在し、彼らが生み出す生産物を基盤に貴族層の軍事訓練や共同生活が支えられた。このように階級間の役割分担が明確化された点が、スパルタ独自の社会秩序を形成した。

軍事都市

スパルタは、先住民アカイア人を征服して農地を得、10倍以上もの先住民を支配するため、協力な軍事力が必要となる。市民の平等と戦士市民団的性格を強め、男性女性ともに体力的な優位性が求められた。そのため古代ギリシアでも特出した陸軍国となる。しかし、文化が栄えたアテネとは対照的に、文化的にはなにも残さなかった。

軍事制度

強力な軍隊こそがスパルタの象徴である。少年期から国家管理下で過酷な訓練プログラム「アゴゲー」を課し、国民総兵士といえる体制を築いた。兵士たちは共同生活を送り、厳しい規律のもとで団体戦術を身につけることで、密集陣形(ファランクス)を最も洗練された形で運用できたとされる。戦闘のみならず生活の隅々にまで軍事的な規範が行き渡っていたため、スパルタ人は質実剛健な国民性を育んだ。名誉や忠誠が重視され、臆病や逃亡は最大の恥と考えられた。

戦術

スパルタ市民の男性は幼い頃から軍事訓練を積み、個々の能力も高く、古代ギリシアではもっとも優れた軍隊を有していた。前7世紀頃から重装歩兵を採用した。鎧をつけ、小型の楯と長い槍を装備し、従来の一騎打ちシステムから隊列を組んで戦う戦法へと変わった。これを重装歩兵戦術と呼び、中小農民や中堅的市民層の進出を促した。

スパルタの男性

男子は小さな頃から厳しい集団的な軍事教育で鍛えられ、30歳になって初めて結婚を許された。日常的に15人が食事集団を作り、戦時には15人が戦闘単位となる。これにちなみ、スパルタ教育という言葉が生まれた。

男性の略年

7歳:親元を離れて集団生活を行う。
12歳:兵士としての軍事教育が始まる。
18歳:非戦闘員として軍隊に編入される。
20歳:兵営常駐の主力軍に変ユウされる。
30歳:兵営を離れ、家庭を持つ兵役、共同食事の義務、エフォロイ(最高公職者への被選挙権を持つ)
60歳:兵役義務の免除。長老会員への被選挙権をもつ。
結婚:30歳までは兵営で生活し、妻とは別居

スパルタの女性

女性は、親元で生活し、将来頑丈な子を産むための身体訓練(格闘技、陸上競技)を行っていた。アテネの女性とは対照的にスパルタの少女は身体作りの訓練に励んでていた。古代ギリシアではスパルタの女性は育児が最もうまく乳母に最適といわれていた。

軍事政策

古代ギリシアでは早期に重装歩兵という組織的な軍事手段を用い、訓練が積まれた市民がおり、特出した軍事能力を有していた。しかし、実際的には、前8世紀~7世紀にメッセ二アを征服してから以後対外的に拡大政策をとらなかった。諸ポリスとペロポネソス同盟を結んで指導する程度であった。

外交

同盟国との結束によってペロポネソス半島を制圧したスパルタは、アテナイなど他の強豪ポリスと競合しながらもギリシアの覇権を争う地位にあった。ペルシア戦争ではレオニダス王が率いる300人がテルモピュライの戦いで奮戦し、その勇猛さはギリシア全土の士気を高めた。一方、ペロポネソス戦争では海軍力の乏しさを相手に突かれながらも、最終的にはアテナイに勝利を収め、ギリシア世界の主導権を握る。だがマケドニアのフィリッポス2世やアレクサンドロス大王の台頭によって次第に影が薄れ、ヘレニズム期に入ると都市国家としての独立性を保ちながらも古来の軍事力は衰えていった。

経済

スパルタの市民にはクレーロスとよばれる分配地をもち、ヘイロタイが耕作をさせていた。市民は労働の必要がなく市民間は法的に同等であった。土地の自由処分は認められておらず、市民が商工業に従事することは禁止されていた。クレーロスは元来「くじ」の意味で分配地の意味に転じた。自給自足の経済をとり、貨幣も鉄幣で外部との経済政策はおこなわれなかった。

考古学的発見

都市の規模や共同住宅の痕跡を示す遺構は比較的少ないものの、近年の調査ではオリュンピア遺跡との交流を示唆する奉納品や、古代の生活空間を物語る陶器の破片などが見つかっている。これらの発見からは、スパルタ人が外部と完全に隔絶していたわけではなく、むしろ祭典や交流の場で積極的に自己を主張していた側面が推測される。また、史料的にはプルタルコスの『対比列伝』など後世の記録が残るが、当時の慣習や制度が理想化されて伝承された部分もあるため、考古学的証拠と突き合わせる研究が重要視されている。

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