スターリン批判
スターリン批判とは、スターリンの死後、1956年2月に行われたソ連共産党第20回大会で行われたフルシチョフ第一書記のスターリンについての秘密報告である。この報告で、スターリンが支配したソ連に何が起きたのか、を報告された。その内容が東ヨーロッパの共産党に流れ、それをアメリカ国務省がつかんで公表しました。
スターリン
レーニンによって、ソ連には、共産党が独裁制をとったが、そこにスターリンが指導者の立場となることで、ソ連国内は、粛清、処刑、強制連行などが横行し、農業政策の失態は大規模な餓死者が出た。
ソ連共産党第20回党大会
1956年2月、ソ連共産党第20回大会の最終日に、フルシチョフ第一書記が、スターリンについての報告を行った。
ソ連共産党第17回党大会
1934年、ソ連共産党第17回党大会が行われたが、スターリンはこの大会で選ばれた党中央委員会の委員と委員候補139人のうち、98人(70%)を逮捕・銃殺した。さらに党大会の代議員1956人のうち、1108人が逮捕されるという事態になる。いずれも「人民の敵」というレッテルを貼られ、秘密裁判で死刑判決を受けると、直ちに処刑されることとなる。スターリンは司法機関(裁判所)に彼らに死刑判決を下すこと、直ちに死刑を執行することを命令した。なお、罪を認めないものは拷問された。
スターリンは取調官を直接自分のところに呼び出し、指示を与えたり、取り調べの際に用いるべき方法を助言したりしました。その方法というのは、実に簡単なものでした。すなわち、殴れ、殴れ、もっと殴れ、というのです
人間不信
スターリンは病的に人間不信に陥っており、まったく他人を信用していなかった。いたるときにも人々を見て、「敵」や「偽善者」「スパイ」をみた。スターリンの元に招かれた人々は、常にどこへ連れて行かれるか、自宅に無事帰れるのか、心配していた。
洗脳と個人崇拝
徹底した共産主義思想、党への忠誠心、スターリン個人に対する崇拝から厳しい拷問の上、たとえ処刑されても、党員はその忠誠を捨てることはなかった。
私は取調官の圧力に屈して自供したのであり、取調官は私が逮捕されて以来ずっと私に拷問を加えてきました。・・・・・・私はいかなる陰謀にも加わったことがなく、罪を犯したこともない。私は自分がこれまでずっと生涯を通じてそうであったように、党の政策の正しさを信じつつ死んでゆくつもりです
小話
フルシチョフがスターリン批判の演説をすると、聴衆のひとりが叫んだ。「お前は何をしていたんだ?」フルシチョフは、「だれがそんなこと言った!」と聞き返した。誰も答えないと、フルシチョフは、こういった。「よろしい。それは私もしていたことだ。黙っていたのだ。」
『スターリン小伝』
スターリンはソ連の各地に自らの銅像を造らせた。連日、いかにスターリンが偉大であるかという報道が行われ、1948年には『スターリン小伝』という本が出版された。「最も偉大なる統領」「全時代、全民族最良の戦略家」などという言葉が並んだ。特にフルシチョフは、スターリン自らが書き加えた箇所を暴露した。「スターリンは、党と人民の統領としての課題を立派に果たし、全ソヴィエト人民の支持を完全に獲得していたが、反面、自分の活動の中に、自慢、高慢、うぬばれなどの影が少しでも見えるのを許さなかった」と。
スターリンの被害者
フルシチョフの報告は、党内に限った話で、それ以外、国民全体となると、少なくとも800万もの人が処刑あるいは強制収容所に置かれた。さらに1200万人から1500万人という試算もあり、詳細はわかっていない。
軍部の粛正
スターリンの処刑は軍部もその対象となった。彼らは、「敵のスパイ」という汚名を着せられて大量の将軍が処刑された。5人の元帥のうちの3人、海軍大将10人など、その数は全軍将校の5分の1の数千人に上り、このことは第二次世界大戦でのドイツ侵攻を許した要因となった。