ゲティスバーグの戦い
ゲティスバーグの戦いは、1863年7月1日から3日にかけてペンシルベニア州ゲティスバーグ周辺で行われた、南北戦争最大級の会戦である。アメリカ合衆国北部の北軍と、分離独立したアメリカ連合国の南軍が激突し、両軍あわせて約5万名以上が死傷した。南軍のロバート=E=リー将軍が北部領内に侵攻した決戦であり、北軍の勝利によって南軍主導の戦局拡大は阻止され、この戦いは戦争の「転換点」として評価されている。
南北戦争とゲティスバーグの位置づけ
南北戦争は、奴隷制の存続と合衆国の統一をめぐって勃発した内戦であり、1861年から65年まで続いた。1862年までに南軍はバージニア方面で連勝を重ね、リー将軍の軍事的名声は高まっていた。一方、アメリカ合衆国大統領リンカンは、1863年1月に奴隷解放宣言を発し、戦争を奴隷解放と「自由」のための戦いとして位置づけた。リーは北部世論を揺さぶり、欧州列強の承認を期待して、再び北部領内への侵攻を決断し、その結果としてゲティスバーグの戦いが生じた。
戦いに至る経過
1863年春、リー率いる南軍北バージニア軍はチャンセラーズヴィルの戦いで北軍に勝利し、その勢いのままポトマック川を渡ってメリーランド、さらにペンシルベニアへ進軍した。北軍は指揮官を交代させ、ジョージ=G=ミードをポトマック軍司令官に任命し、南軍を追撃する。両軍は補給道路と交差点が集中するゲティスバーグ周辺で遭遇し、ここが自然に決戦の舞台となった。
3日間の主な戦闘
1日目の遭遇戦
7月1日、南軍先遣部隊と北軍騎兵がゲティスバーグ北西で遭遇し、小規模戦闘が次第に拡大した。南軍は当初優勢で、北軍部隊を町の南側の高地へと退却させることに成功する。しかし、北軍はセメタリー・ヒルやカルトプス・ヒルといった高地に防御線を築き、以後の戦闘で決定的な地形上の優位を確保した。
2日目の包囲的攻撃
7月2日、リーは北軍陣地の両翼を突破しようと試みた。南軍はリトル・ラウンド・トップやデビルズ・デン、ピーチ・オーチャードなどに激しく攻撃を加え、北軍は必死の防戦を強いられる。局地的には南軍が優勢となる局面もあったが、北軍は高地の支配を維持し、前線は大きく崩壊しなかった。
3日目とピケットの突撃
7月3日、リーは北軍中央を砲撃で弱体化させたうえで歩兵による正面攻撃を敢行する作戦を立てた。午後、ジョージ=ピケット准将らの師団を中心とする南軍歩兵約1万数千名が、広い開けた平地を進撃して北軍中央に突撃した。この攻撃は後に「ピケットの突撃」と呼ばれ、激しい砲火と銃撃にさらされた南軍兵士は大損害を受けて撃退され、南軍の攻勢は完全に挫折した。
損害と戦略的結果
ゲティスバーグの戦いでは、北軍・南軍あわせて5万名を超える死傷者が出たとされる。戦術的には北軍の防御的勝利であり、リーは引き続き軍の統率権を保持したものの、北部領内での決定的勝利は得られず、退却を余儀なくされた。これにより、南軍の攻勢は終わりを告げ、戦略的主導権は次第に北軍に移った。同じ1863年7月には西部戦線でヴィックスバーグが陥落し、合衆国はミシシッピ川の支配を回復している。
奴隷解放と政治的影響
ゲティスバーグの戦いでの北軍勝利は、奴隷解放宣言後の戦争目的を正当化し、共和党政権への支持を強めた。欧州列強、とくにイギリスやフランスがアメリカ連合国を正式に承認する可能性も遠のき、国際的にも合衆国の統一維持という方針が重視されるようになった。自由と人民主権の理念は、すでにアメリカ独立戦争以来の伝統であったが、内戦を通じて改めて確認されたのである。
ゲティスバーグ演説と歴史的記憶
1863年11月、ゲティスバーグに国立墓地が設けられ、その奉献式でリンカン大統領は有名なゲティスバーグ演説を行った。短いながらも「人民の、人民による、人民のための政治」という表現で知られるこの演説は、合衆国を「自由の新たな誕生」を目指す国家として再定義するものであった。こうしてゲティスバーグの戦いは、一つの会戦であると同時に、合衆国の理念と奴隷制廃止をめぐる象徴的事件として、アメリカ史と世界史のなかに刻まれている。