キリスト者の自由
「キリスト者の自由」は、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが1520年にラテン語とドイツ語で公刊した小著である。彼はここで、キリスト教信仰に基づく「自由」とは何かを、教会制度や儀式から切り離し、福音の核心から説明しようとした。ローマ教皇庁や修道制度を批判した一連の著作の一つであり、宗教改革神学を簡潔に要約した文書として位置づけられる。
成立と歴史的背景
本書はしばしば同年に書かれた「ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書」「教会のバビロン捕囚」と並ぶ三大著作の一つとみなされる。ルターは当初、教会を内部から改革しようとしたが、贖宥状をめぐる論争とローマ側の反発によって対立が深まり、その中で信仰義認とキリスト者の自由を明確に述べる必要に迫られたのである。ローマ教皇庁から破門の危機にさらされつつ書かれたこの小著には、教皇権威への服従よりも、福音への服従を優先しようとするルターの姿勢が端的に表れている。
二つの命題とキリスト者の自由
「キリスト者の自由」の冒頭で、ルターは二つの逆説的な命題を提示する。すなわち「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも従属しない」と同時に「キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰に対しても自由である」という命題である。この逆説は、信仰による内面的自由と、愛による隣人奉仕という二つの側面を示している。信仰によって神との関係において完全に解放された者は、今度は隣人への愛のゆえに、進んで自らを低くし奉仕に身をささげることができるという構図である。
内なる人と外なる人
ルターによれば、人間には「内なる人」と「外なる人」がある。内なる人は心・霊魂の領域であり、そこで人は神の言葉を信じることによって義とされ、神の前で自由にされる。他方、外なる人は肉体と社会生活の領域であり、ここでは善行や職業、政治への従順など、さまざまな義務を担い続ける。この区別によって、信仰による救いの教理と、社会秩序の維持とが調停されると理解された。内なる人は信仰だけによって神との関係が決定されるが、外なる人は隣人との関係において善行を通じて責任を果たすべきだとされるのである。
信仰義認と善行
ルターはまた、善行の価値を全面的に否定するのではなく、救いを得る条件としての善行を退ける一方で、信仰から自発的に生まれる愛の業としての善行を重視した。人は信仰によってすでに神の前で義とされているがゆえに、感謝と愛から隣人に仕え、貧者を助け、職務を忠実に果たすべきであると説くのである。ここに、信仰義認と倫理的実践との結びつきが見られる。善行は救いを獲得する手段ではなく、すでに与えられた救いの「実」として理解される点に、「キリスト者の自由」における神学的特色がある。
宗教改革史上の意義
この著作は、後のプロテスタント神学における「良心の自由」や「信仰の自由」の思想に大きな影響を与えたと評価される。他方で、「自由」の語はしばしば誤解され、16世紀のドイツ農民戦争のように、社会的・政治的解放要求と結びつけられることもあった。しかしルター自身は、霊的自由と世俗的秩序を区別しつつ、信仰者がそれぞれの職業と身分の中で隣人愛を実践することをキリスト者の生き方として提示したのである。この点で「キリスト者の自由」は、宗教改革が単なる教義論争ではなく、生活のスタイルや社会観をも変化させる契機であったことを示している。
現代における評価
現代の研究や教会においても、「キリスト者の自由」は宗教改革の導入的文献として読まれ続けている。カトリック教会とプロテスタント諸教会の対話においても、律法と福音、権威と良心、教会と国家の関係を検討する際の重要な手がかりを提供していると考えられている。個人の内面的な信仰の自由と、共同体の責任ある秩序維持とをいかに両立させるかという課題は、近代以降の宗教思想や政治思想にも通じる主題であり、この小著はその出発点の一つとして評価されている。日本のキリスト教史や思想史でも、明治以降のプロテスタント受容を理解するための基本文献の一つとして紹介されることが多い。