フィデル・カストロ|成し遂げたキューバ革命

フィデル・カストロ

フィデル・カストロは、キューバの独裁者である。チェゲバラとともにキューバ革命でキューバの独裁体制を倒した後、キューバの首相として活躍する。反米政策を行い、キューバをソ連に近い社会主義政策を行った。ソ連からの核ミサイルを供給されたことをきっかけにアメリカとの緊張が高まり、キューバ危機を招いた。雄弁家として知られ、広場では群衆を前に演説していた。長いひげをたくわえ、いつもオリーブ色の戦闘服を着ていた。

生誕

1926年8月生まれで、「フィデル」とは「信ずる者」という意味する。7人の子どもの5番目であった。父親はスペインからの移民で、豊かな農園主であった。学生時代から反体制の活動を始め、弁護士になり、以降、反バチスタの武力闘争に身を投じまる。

バチスタ大統領の独裁

1952年、クーデターでスペインから独立し、政権をとったバチスタ大統領は、アメリカの後押しを受け、独裁政治を続けた。フィデル・カストロは、腐敗した政権に対する反対運動の中心的役割を担った。

モンカダ兵営を襲撃

1952年7月26日、カストロは百数十人の仲間とともに、東部のサンティアゴ・デ・クーバにあったバチスタ軍のモンカダ兵営を襲撃した。1000人以上の兵士をわずかな武器で奇襲したため失敗に終わり、カストロは逮捕される。

歴史は私に無罪を宣告するであろう

メキシコへの亡命

判決は禁固15年であったが、2年後、恩赦で釈放され、メキシコに亡命した。ゲリラ戦術を学びました。アルゼンチン人の革命家エルネスト・チェ・ゲバラと交友が始まる。

グランマ号

1956年11月25日、カストロはわずか81名の仲間とともにメキシコのトゥスパン港を出港し、1956年12月2日、キューバに再上陸を果たした。この中には軍医としてチェ・ゲバラも同席していた。乗っていた船は、8人乗りのヨットで「グランマ号」(おばぁちゃん)といい、みすぼらしいものであった。現在のキューバ共産党の機関紙は、この船の名前をとって『グランマ』と呼ばれる。

キューバへの到着

カストロは出航前にキューバの国民に革命運動の扇動を狙い、キューバ国内に戻ることを伝えた。この発表を聞いたバチスタ軍は、カストロを待ち受け、上陸した82人は、圧倒的な軍勢に包囲され、70人は死んだ。。12人は、キューバ東南部のマエストラ山脈に逃げ込み、ゲリラ活動を始める。

カストロの勝利

わずか十人程度からゲリラ戦を続け、次第に権力を拡大していき、戦力を増していく。また、それにつれて、規模を拡大していき、バチスタ政権への反対運動が拡大していった。1959年1月1日、バチスタ大統領をドミニカへの亡命に追い込み、カストロは勝利を治めた。

アメリカの対応

1959年1月7日、腐敗した独裁者バチスタに代わって、国民の支持を得たカストロがキューバに民主主義をもたらすことを期待し、アメリカはキューバの革命政府を承認した。

カストロによる粛正

カストロの革命政府は、選挙を実施せず、独裁体制を築き、バチスタ政権の幹部だった500人以上を人民裁判で公開処刑した。

アメリカ企業の国有化

アメリカ企業が所有していた農地6万ヘクタールを国有化した。さらに1959年5月、キューバは、ソ連から輸入した原油の精製をキューバ国内にあるアメリカの石油会社に依頼するが、石油会社がこれを拒否すると、アメリカの石油会社を国有化した。

アメリカの報復

アメリカのアイゼンハワー大統領は、キューバへの報復として、キューバからの砂糖の輸入量の95%削減した。キューバにとって砂糖の輸出は主力産業であり、経済的な基盤が根底から揺らいだ。カストロは、アメリカ企業26社を国有化で対抗し、アメリカの損害は10億ドルを超えた。アメリカは、キューバとの貿易を停止した。

CIAの工作

ソ連は、アメリカが買い付けを拒否した砂糖の全量を買い上げた。このことでキューバは、ソ連との経済的な結びつきを強めていく。冷戦においてソ連と対立関係にあるアメリカは、このキューバの行動に危機感を抱き、アメリカは、CIAを使って、カストロに圧力をかけた。

アメリカのキューバ侵攻

カストロの革命政権を嫌って、アメリカに亡命したキューバ人に軍事訓練を施して、キューバに侵攻させた。これは、アイゼンハワー政権時代の計画であったが、大統領に就任したばかりのケネディが引き継ぎ、承認した。しかし、計画を秘密にするため、侵攻3日前、ケネディはキューバに攻めないことを宣言した。

キューバ革命

1961年4月15日、アメリカ軍の爆撃機6機が、キューバ機を装って中米ニカラグアを飛び立ち、キューバの飛行場を爆撃した。キューバ機3機を破壊し、巻き添えで民間人7人が死亡した。カストロは、犠牲者の追悼式で、キューバ革命を「社会主義革命」だと始めて宣言した。一方でアメリカには国際的な批判が集まる。

侵攻作戦の失敗

中米のグアテマラとニカラグアを出発した1500人の亡命キューバ人は、2日後、キューバ南部のピッグス湾に侵攻したが、アメリカ軍機が上空から掩護することになっていたが、アメリカ軍機による爆撃が世界から非難されたことに動揺したケネディは、直前になって上空からの掩護をやめさせた。これで侵攻作戦は、失敗に終わる。

カストロ暗殺計画

CIAは続いてカストロ暗殺の試みを企てたが、すべて失敗する。カストロの吸う葉巻に毒を仕込む、カストロが演説するテレビ局のスタジオに精神を錯乱させるガスをまいてカストロが発狂したように見せかける、など計画していたが、失敗、計画そのものが発覚した。

オリーブ色の革命

アメリカと対立するカストロ政権は、ソ連よりの政策を進めていく。教育、医療、電気、ガスなどの社会サービスをすべて無料にした。革命前に激しかった貧富の差はほとんどなくなり、乳児死亡率は先進国並みに低下した。またソ連とは異なり、キューバの言論統制は緩やかで、常にオリーブ色の戦闘服に身を包んだカストロは、国内のどこにでも気軽に出向き、国民との対話を行った。カストロのラテン的な明るい社会主義は、ソ連のような赤色の革命ではなく、「オリーブ色の革命」と呼ばれた。

キューバ危機

カストロのこうした反アメリカ・親社会主義の態度は、ソ連との関係を構築し、核ミサイル配備受け入れにつながる。核ミサイルを確認したケネディは、アメリカ本土への核攻撃を懸念し、キューバへの侵攻を検討する。キューバへの侵攻はソ連との全面戦争を招くことを意味し、世界は核戦争の危機を恐れた。最終的にはソ連との密約で核戦争を回避する。これをキューバ危機という。