アングロ=サクソン七王国
アングロ=サクソン七王国(英: Heptarchy)は、5世紀末から9世紀頃のブリテン島南部・東部に成立した複数王国の総称である。ローマ帝国の撤退後、アングル人・サクソン人・ジュート人が定住し、ケント、サセックス、エセックス、イースト・アングリア、マーシア、ノーサンブリア、ウェセックスの七王国が並立した。七という数は便宜的な枠組みで、実際には小王国や境界領域が入り組み、政治的優越は時代ごとに移動した。9世紀のヴァイキング来襲とウェセックスの伸長を経て、10世紀には「イングランド王国」への統合が進む。
成立の背景
4世紀末以降のローマ支配の弛緩と5世紀初頭の撤退は、ブリテンの防衛体制と都市経済を弱体化させた。海峡を隔てたゲルマン系諸集団が渡来し、沿岸部や河川交通の要衝に拠点を築くと、在地のブリトン人勢力との抗争・共存の過程で諸王国が形成された。移住は一挙ではなく段階的で、軍事的集団の入植、婚姻関係の構築、在地支配層の取り込みなど複合的なプロセスであった。
主要七王国の輪郭
- ケント(Kent): 海峡貿易の利を得て早期に王権を整え、エゼルベルト王は法典を編纂し、カンタベリーを宗教中心とした。
- サセックス(Sussex): 南海岸を基盤に成立。規模は小さいが、周辺諸勢力との連携で自立を保った。
- エセックス(Essex): テムズ河口を押さえ、ロンドン周辺の支配権をめぐって他国と角逐した。
- イースト・アングリア(East Anglia): 北海交易と農耕地帯を背景に栄え、サットン・フーの王墓に象徴される富を残す。
- マーシア(Mercia): 島内中部の内陸勢力。8世紀にオファ王が覇権を確立し、貨幣改革や「Offa’s Dyke」で知られる。
- ノーサンブリア(Northumbria): ディー川以北を支配し、7世紀に文化・学芸で隆盛。リンディスファーンやジャロウの修道院が中心。
- ウェセックス(Wessex): 南西部を基盤に台頭。9世紀以降、対ヴァイキング防衛と内政整備で覇権を握った。
「七王国」はあくまで見取り図であり、実際にはミドルセックス、ハンバー川周辺の辺境領、諸侯領など多様な単位が重層していた。
政治秩序とブレトワルダ
諸王国は緩やかな勢力均衡で結ばれ、恒常的な統一王権は存在しなかった。史料に見える「ブレトワルダ(Bretwalda)」とは、広域に覇権を及ぼした王に対する称号で、ケントのエゼルベルト、ノーサンブリアのエドウィンやオスウィ、マーシアのペンダ、オファ、そしてウェセックスのエグバートらが時代ごとに覇者として浮沈した。彼らは戦争・通婚・臣従関係・教会ネットワークを通じて影響力を拡げ、貨幣鋳造や市場統制、関税・通行料の管理によって財政基盤を整備した。
キリスト教化と文化
597年、ローマの教皇グレゴリウス1世が派遣したアウグスティヌスがケントに到来し、王室改宗を契機にカンタベリー大司教座が成立した。一方、北方ではアイルランド系修道制がアイオナ島を経てノーサンブリアに浸透し、664年のウィットビー宗教会議でローマ式が優越する。修道院はラテン語文献の伝来・写本制作・教育の中心であり、ビーダ(Bede)の『教会史』は七王国期理解の基本史料である。文字はルーンからラテン文字へと置換され、法典・勅許状(charter)・年代記が整備された。
社会構造と法
王の法院と諸侯(ealdorman)・従士(thegn)が支配層を構成し、自由民(ceorl)と隷属民が農村社会の主軸であった。郡(shire)や百戸区(hundred)に基づく裁判・徴税の枠組みが形成され、殺傷の賠償金(wergild)や盗犯・婚資に関する細目が法典に記された。貨幣は銀ペニーを中心に標準化が進み、北海交易圏との結節が王権財政を支えた。
ヴァイキングの衝撃とダネルー
8世紀末からスカンディナヴィア勢力が襲来し、865年の「大異教徒軍」以降は越冬・定住を伴う征服段階に入る。東部・北部にはデーン人の法慣習が及ぶ「Danelaw」が成立し、多くの王国が圧迫を受けた。ウェセックスのアルフレッド大王は防衛拠点(burh)網の整備、艦隊建設、兵役制度の再編、法の改訂を進め、ガスルム(Guthrum)との講和により王国の存立を確保した。こうした軍事・行政改革は後継者による再征服と統一の基盤となった。
統一への道とイングランド王国の出現
アルフレッドの子エドワード(Edward the Elder)と孫アゼルスタン(Athelstan)は、ダネルー諸都市と北部諸勢力を次第に服属させ、927年頃までに「イングランド王(King of the English)」の称号を確立した。王権はシャイア行政の整序、貨幣改革、教会組織の再編、法の標準化を推進し、七王国の多元的秩序は一つの王国の法的・制度的枠組みに収斂していった。
経済・都市と物質文化
七王国期の経済は農耕に根ざしつつ、ローマ時代の遺構を活かした道路・渡河点が交易を支えた。王権が関与する市場や港湾(wic)は、職人・商人の集住を促し、度量衡や関税の標準化が進んだ。考古学的にはサットン・フーの王墓、副葬品の工芸、貨幣出土分布が広域交流を示し、またオファのディッチのような土木境界施設は領域支配の実効化を物語る。
用語「ヘプターキー」の史学的位置づけ
「Heptarchy(七王国)」は16世紀以降に整った後代的呼称であり、同時代人の自己認識ではない。にもかかわらず、この枠組みは政治地図の変動と覇権の循環、キリスト教化と王権形成の並行過程を俯瞰する上で有効な便法である。ただし地域ごとの差異、境界領域の自律性、小王国の流動を過度に単純化しない配慮が求められる。
史料と研究
基礎史料は『アングロ・サクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)』、ビーダ『イングランド教会史』、王の勅許状群、法典である。補助として地名学・貨幣学・考古学が不可欠で、年代観は地域ごとの受容・抵抗・同化の差を織り込みながら再構成される。七王国は、島内政治の多元性と海域世界の結節性を同時に理解するための鍵概念である。