アテネ
アテネは、イオニア人がアッテイカ地方に建設した、古代ギリシア世界を代表するポリスである。女神アテナにちなんで名付けられた。バルカン半島南端のアッティカ地方に位置し、地中海交易の中心として発展した。前8世紀半ばにアテネは王政から貴族政に移行し、大土地所有貴族が軍事と政治を独占、貴族から選ばれた9人のアルコン(執政官、任期1年)がポリスを統治した。文化面では、高度な文化・学術の隆盛など、多彩な側面を併せ持つのが特徴である。華やかな文化遺産を残す一方、外交・軍事面ではスパルタとのペロポネソス戦争など内部抗争など戦争も多かった。
都市の起源
アテネの起源は非常に古く、伝説によれば王ケクロプスによって建設されたとされる。紀元前2000年頃から人々が居住していた跡が見つかっており、エーゲ海の交易ルート上にある地理的条件も手伝って、早期から政治・経済の拠点として成長した。アクロポリスの丘を中心に形成され、周辺には小規模な村落が点在していたが、やがて「シノイキスモス(集住)」の進展によって統合されたポリスへと発展していったと考えられている。

アテネ
政治体制の変遷
アテネは最初、貴族制を基盤とした政治運営が行われていたが、市民間の不満を背景にドラコンやソロンによる改革が進められた。ドラコンは法の成文化を行い、ソロンは負債の帳消しや財産に応じた市民の身分区分を導入するなど、市民権拡大の足がかりを作った。続くクレイステネスの改革は10部族制を敷き、民主政の基盤を確立していく。こうした流れの中で生まれた公的議論の場がアゴラであり、ペリクレスの時代には直接民主政が完成度を増し、多くの男性市民が政治に参加する独自の社会が築かれた。
貴族政治
アテネでは前8世紀半ばに王政から貴族政に移行し、アルコンと呼ぶ役人が選ばれて統治したが、7世紀にはその任期も1年に限定された。しかし役人は貴族が独占し、アルコン経験者がアレオパゴスの丘で開かれる会議を構成して裁判と国政の監督をおこなっていた。
キュロン
キュロン(前7世紀)は前7世紀アテネの貴族である。前632年にアクロポリスを占拠して僭主になり独裁政治を行おうとしたが、他の貴族も平民も彼を支持せず、クーデタは失敗に終わった。
ドラコン
ドラコンは、前7世紀後半のアテネの立法者で、従来の慣習法を成文化し、貴族による法の独占を破った。それまで貴族の恣意にまかされていた裁判や制度の運営の成文法を制定することによって公正で明確なものとした。私的な復讐を規制して、ポリスの裁判にゆだね、秩序の維持をはかったとされるが、きわめて厳格で、平民の政治的・経済的要求に応えるところは少なかった。
直接民主主義
アテネでは直接民主主義が行われていた。前508年のクレイステネスの改革で基礎が築かれ、ペルシア戦争後ペリクレスの指導で完成されるなど、アテネで典型的な発展が見られた。民会の最高議決機関化、将軍などを除くほとんどの官職の抽選制、民会や裁判への参加者に対する日当支給などをおもな内容とした。しかし奴隷制度を前提とし、市民になれる条件は限られ、女性の政治参加も認められなかった。(アテネの民主主義)
オストラシズム
オストラシズム(陶片追放)とは、僭主の出現を防止するための、市民による投票制度である。陶片(オストラコン)に危険人物の名を記し、投票総数が6000票以上あった場合、最多得票者を10年間の国外追放とした。(6000票を獲得した一人を国外追放にした。という説もある)。前487年に初めて施行されたがのちに悪用され、デマゴーゴスによる扇動会の道具となったので、5世紀末に中止された。
ヘクテモロイ
前6世紀初め、アテネでは、借財によって身体を抵当に入れて隷属的労働に陥る人々(ヘクテモロイ)の存在が問題視される。ヘクテモロイは、6分の1という意味で、農業の収穫の6分の1を貢納する義務をおった者だと思われている。これを解決するため、ソロンがアルコンとなって調停を試みた。
僭主
僭主とは、民衆の不満を利用し、その支持を得て、非合法的に政権を握った独裁者である。前7~前6世紀の貴族政治から民主政治への過渡期に借主政治が出現した。
ソロン
ソロンは前640頃~前560頃アテネの政治家・詩人である。調停者として前594年に経済改革を断行したが、貴族・平民両者から非難され、引退した。。財政改革の他、小麦の輸出を禁じてアテネの農業を保護し、贅沢の禁止また党派の争いが生じたとき市民は必ずこれに参加して戦わなくてはならない、という法を作ったともされる。
ソロンの改革
ソロンは債務奴隷を解消するため、借財を一挙に帳消しにし、以後市民が身体を抵当にすることを禁じて市民の奴隷化を防止して市民団の枠組みを固めた。また市民をその財産所有地の農業生産物に換算に応じて、500メディムノス級金・騎士級・農民級・労働者級の4身分に分け、各身分の政治参加の役割を定めて市民の社会的地位を明確にした(財産評価政治=ティモクラティア)。このような負債の帳消し、債務奴隷の禁止、財産政治の実施を柱としたソロンの改革であったが、貴族・平民の両者から不評で、彼らの対立関係を解消することはできなかった。
- 債務奴隷:土地・身体を抵当として借財し、返済できずに奴隷身分に転落した者。
- 財産政治:財産に応じ市民を4等級に分け、等級に応じて参政権と兵役義務を定めた。
ペイシストラトス
ペイシストラトス(?~前528)はアテネの貴族・政治家である。戦争で成果をあげ、山地の貧しい農民たちを支持者として策略によって独裁権力を作り上げ、僭主となった。ペイシストラトスは亡命貴族の土地・財産を貧しい農民に配分し、中小農民を保護・育成をおこなった。また、アッテイカにあるラウレイオン銀山を開発してその資金でアクロポリスやアゴラを神殿建築などで美化し、またホメロスの叙事詩を書物として流布させ、宗教ではアテナ女神礼拝やディオニュソスの祭を盛んにした。アテネの美化や文化事業に投資し、アテネ市民の団結と誇りを促す政策を行った。死後、ペイシストラトスの子は暴君化として追放された。
クレイステネス
クレイステネスは、前6世紀末頃のアテネの政治家。前508年、大胆な改革をおこなって貴族を抑え、民主政の基盤を確立した。ペイシストラトスの子が暴君化して追放されたあと、前508(または507)年貴族クレイステネス(前6世紀末)が広い層の平民の支持をえて実権を握る。貴族を支えた血縁にもとづく4部族制を解体、市民を居住する地区(デーモス)に登録し、地区を30のグループにまとめ、それらをたくみに組み合わせて地縁的な新しい10部族制をつくりあげた。ソロン時代からある400人評議会も新部族から出する500人評議会に改めて民会の先議機関とし、各部族から選ぶ10人の役職を創設した。このように血縁的な部族制の廃止、オストラシズムの創設などの改革を実施し、貴族政・僭主政の再現を阻止して、民主政の基礎を確立した。
ペルシア戦争
ペルシア戦争とは、前500~前449年、アケメネス朝ペルシアとアテネを中心とするギリシア諸ポリスとの戦争である。前500アケメネス朝のダレイオス1世に対し、小アジア西岸一帯のイオニア植民市が反乱を起こしたが、アテネはイオニア植民市を支援したことで、ペルシア戦争が勃発する。前480~前479の3回にわたるペルシアゴの侵攻をギリシアが撃破した。前449年のカリアスの和約で最終的に終結した。これによってアテネは、デロス同盟の盟主として経済的・軍事的覇権を握り、地中海世界でも一目置かれる存在に成長したのである。
三段櫂船
テミストクレスの指導のもとで建造された三段櫂船がアテネを中心にギリシア艦隊の要となり、サラミスの海戦での大勝利をもたらした。
重装歩兵
重装歩兵は、かぶと・よろい・すね当て・盾・長槍で装備した歩兵のことをいう。古代ギリシャの特徴がある軍である。重装歩兵は、密集隊形が戦いの主力であり、商業の発展に伴い平民も武装するようになった。
パルテノン神殿の建築
ペリクレス時代にはアテネ黄金期とも呼ばれる文化的隆盛が訪れる。アクロポリスの頂上にそびえるパルテノン神殿は、その象徴として建設された。フェイディアスら著名な彫刻家が参加し、女神アテナへの信仰と都市の威信を示すモニュメントとして圧倒的な美と技術を具現化している。ドーリア式の列柱を用い、建築全体の比例や彩色においても極めて高い水準を誇る。同時期には演劇や哲学、歴史学などの学問分野も活性化し、ソクラテスやプラトンといった思想家の輩出が続いた。
ペロポネソス戦争と衰退
軍事・文化の両面で絶頂を迎えたアテネであったが、その繁栄はスパルタとの対立を深め、紀元前431年にペロポネソス戦争へ突入する。陸軍力で勝るスパルタに対して海上封鎖や同盟都市の徴税に依存した長期戦を展開したが、疫病の蔓延や戦費の枯渇によって次第に劣勢に陥り、最終的に敗北を喫した。これを機に民主政は一時的に崩壊し、寡頭制や僭主の台頭など政治的混乱が続いた。都市としての勢いを取り戻すには長い時間が必要となり、強国としての地位は大きく揺らぐこととなる。
マケドニア支配とヘレニズム
紀元前4世紀後半になると、マケドニア王国がフィリッポス2世とその子アレクサンドロス大王によって強大化し、ギリシアのポリスは次々とその軍門に下る運命を辿った。アテネでも民主政治の火は絶えず残されていたが、実質的にはマケドニアの影響下で立法や外交を制限されるようになる。アレクサンドロスの東方遠征によって成立したヘレニズム世界において、アテナイは学問や芸術の伝統を維持し、後世のローマ帝国時代にも「古代の教育都市」としての名声を保ち続けた。
文化的遺産と後世への影響
アテネが残した文化的遺産は多岐にわたる。演劇分野ではアイスキュロスやソポクレス、エウリピデスが悲劇を大成し、アリストファネスが喜劇を独自の形式へと練り上げた。哲学ではソクラテス、プラトン、アリストテレスが西洋思想の基礎を築き、政治学や倫理学に深い足跡を残した。古代民主政の実践は後のヨーロッパ諸国の政治制度に影響を与え、現代の議会制民主主義を考察する上でも欠かせない前例とされる。さらに建築や彫刻、歴史学、修辞学など、あらゆる知的営みの原型を提供し、今もなお西洋文明の源流として語り継がれている。