アテネ|古代ギリシアの民主主義の都市国家ポリス

アテネ

アテネは、イオニア人がアッテイカ地方に建設したポリスである。女神アテナにちなんで名付けられた。集住によって形成されたポリスの典型で、商業交易を主としてしだいに発展した。前8世紀半ばにアテネは王政から貴族政に移行し、大土地所有貴族が軍事と政治を独占、貴族から選ばれた9人のアルコン(執政官、任期1年)がポリスを統治した。

アテネ
アテネ

目次

貴族政治

アテネでは前8世紀半ばに王政から貴族政に移行し、アルコンと呼ぶ役人が選ばれて統治したが、7世紀にはその任期も1年に限定された。しかし役人は貴族が独占し、アルコン経験者がアレオパゴスの丘で開かれる会議を構成して裁判と国政の監督をおこなっていた。

キュロン

キュロン(前7世紀)は前7世紀アテネの貴族である。前632年にアクロポリスを占拠して僭主になり独裁政治を行おうとしたが、他の貴族も平民も彼を支持せず、クーデタは失敗に終わった。

ドラコン

ドラコンは、前7世紀後半のアテネの立法者で、従来の慣習法を成文化し、貴族による法の独占を破った。それまで貴族の恣意にまかされていた裁判や制度の運営の成文法を制定することによって公正で明確なものとした。私的な復讐を規制して、ポリスの裁判にゆだね、秩序の維持をはかったとされるが、きわめて厳格で、平民の政治的・経済的要求に応えるところは少なかった。

ヘクテモロイ

前6世紀初め、アテネでは、借財によって身体を抵当に入れて隷属的労働に陥る人々(ヘクテモロイ)の存在が問題視される。ヘクテモロイは、6分の1という意味で、農業の収穫の6分の1を貢納する義務をおった者だと思われている。これを解決するため、ソロンがアルコンとなって調停を試みた。

ソロン

ソロンは前640頃~前560頃アテネの政治家・詩人である。調停者として前594年に経済改革を断行したが、貴族・平民両者から非難され、引退した。。財政改革の他、小麦の輸出を禁じてアテネの農業を保護し、贅沢の禁止また党派の争いが生じたとき市民は必ずこれに参加して戦わなくてはならない、という法を作ったともされる。

ソロンの改革

ソロンは債務奴隷を解消するため、借財を一挙に帳消しにし、以後市民が身体を抵当にすることを禁じて市民の奴隷化を防止して市民団の枠組みを固めた。また市民をその財産所有地の農業生産物に換算に応じて、500メディムノス級金・騎士級・農民級・労働者級の4身分に分け、各身分の政治参加の役割を定めて市民の社会的地位を明確にした(財産評価政治=ティモクラティア)。このような負債の帳消し、債務奴隷の禁止、財産政治の実施を柱としたソロンの改革であったが、貴族・平民の両者から不評で、彼らの対立関係を解消することはできなかった。

  • 債務奴隷:土地・身体を抵当として借財し、返済できずに奴隷身分に転落した者。
  • 財産政治:財産に応じ市民を4等級に分け、等級に応じて参政権と兵役義務を定めた。

僭主

僭主とは、民衆の不満を利用し、その支持を得て、非合法的に政権を握った独裁者である。前7~前6世紀の貴族政治から民主政治への過渡期に借主政治が出現した。

重装歩兵

重装歩兵は、かぶと・よろい・すね当て・盾・長槍で装備した歩兵のことをいう。古代ギリシャの特徴がある軍である。重装歩兵は、密集隊形が戦いの主力であり、商業の発展に伴い平民も武装するようになった。

ペイシストラトス

ペイシストラトス(?~前528)はアテネの貴族・政治家である。戦争で成果をあげ、山地の貧しい農民たちを支持者として策略によって独裁権力を作り上げ、僭主となった。ペイシストラトスは亡命貴族の土地・財産を貧しい農民に配分し、中小農民を保護・育成をおこなった。また、アッテイカにあるラウレイオン銀山を開発してその資金でアクロポリスやアゴラを神殿建築などで美化し、またホメロスの叙事詩を書物として流布させ、宗教ではアテナ女神礼拝やディオニュソスの祭を盛んにした。アテネの美化や文化事業に投資し、アテネ市民の団結と誇りを促す政策を行った。死後、ペイシストラトスの子は暴君化として追放された。

クレイステネス

クレイステネスは、前6世紀末頃のアテネの政治家。前508年、大胆な改革をおこなって貴族を抑え、民主政の基盤を確立した。ペイシストラトスの子が暴君化して追放されたあと、前508(または507)年貴族クレイステネス(前6世紀末)が広い層の平民の支持をえて実権を握る。貴族を支えた血縁にもとづく4部族制を解体、市民を居住する地区(デーモス)に登録し、地区を30のグループにまとめ、それらをたくみに組み合わせて地縁的な新しい10部族制をつくりあげた。ソロン時代からある400人評議会も新部族から出する500人評議会に改めて民会の先議機関とし、各部族から選ぶ10人の役職を創設した。このように血縁的な部族制の廃止、オストラシズムの創設などの改革を実施し、貴族政・僭主政の再現を阻止して、民主政の基礎を確立した。

オストラシズム(陶片追放)

オストラシズムとは、僭主の出現を防止するための、市民による投票制度である。陶片(オストラコン)に危険人物の名を記し、投票総数が6000票以上あった場合、最多得票者を10年間の国外追放とした。(6000票を獲得した一人を国外追放にした。という説もある)。前487年に初めて施行されたがのちに悪用され、デマゴーゴスによる扇動会の道具となったので、5世紀末に中止された。

ペルシア戦争

ペルシア戦争とは、前500~前449年、アケメネス朝ペルシアアテネを中心とするギリシア諸ポリスとの戦争である。前500アケメネス朝のダレイオス1世に対し、小アジア西岸一帯のイオニア植民市が反乱を起こしたが、アテネはイオニア植民市を支援したことで、ペルシア戦争が勃発する。前480~前479の3回にわたるペルシアゴの侵攻をギリシアが撃破した。前449年のカリアスの和約で最終的に終結した。

直接民主主義

民主主義とは、市民が主導権を握って行われる政治である。アテネでは直接民主主義が行われていた。前508年のクレイステネスの改革で基礎が築かれ、ペルシア戦争後ペリクレスの指導で完成されるなど、アテネで典型的な発展が見られた。民会の最高議決機関化、将軍などを除くほとんどの官職の抽選制、民会や裁判への参加者に対する日当支給などをおもな内容とした。しかし奴隷制度を前提とし、市民になれる条件は限られ、女性の政治参加も認められなかった。(アテネの民主主義


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