アテネの民主主義|古代ギリシアが生んだ民主政

アテネの民主主義

民主主義とは、市民が主導権を握って行われる政治であるが、アテネではこの民主主義が始まった。前508年のクレイステネスの改革で基礎が築かれ、ペルシア戦争後政治家ペリクレスの指導で完成されるなど、アテネで典型的な発展が見られた。民会の最高議決機関化、将軍などを除くほとんどの官職の抽選制、民会や裁判への参加者に対する日当支給などをおもな内容とした。しかし奴隷制度を前提とし、市民になれる条件は限られ、女性の政治参加も認められないなど、現在の民主主義に比べてうまくはいかなかった。

直接民主主義

アテネは対外的には強い支配権を行使したが、国内では徹底した民主主義を実現した。民会は代議制をとらず、すべての市民が参加する直接民主主義をとる。(ただし女性や奴隷は政治に参加できなかった。)

民会

民会はは青年男性の市民の総会で立法・行政・司法上の最高機関である。18歳以上の成年男性市民全員で構成された。貴族世紀には無力化していたが、前6世紀ごろから少しずつ力をつけ、前5世紀には、名実ともに国政の最高機関となった。通常、決議は挙手による参政多数で行われた。

評議会

貴族世紀には4部族から100名ずつ、計400名の議員(任期1年)で構成した。しかし、クレイステネスの改革により、新しい10部族からおのおの50名ずつ選出され、500名(任期1年)となった。そ民会の補佐的な役割を担い、民会へ提出する議案を予備的に審議することにあった。

アレオパゴス会議

アレオパゴス会議とは、アレスの丘(アレオパゴス)で回会した。アルコン職を終えた人々が、資格審査を受けた上で終身議員となった。前456年(ペリクレス時代)までは、アルコンが貴族や富裕層者だけから選出されていたので、保守派や貴族派の根拠地であった。主な任務は裁判であったが、政治的に活動することもあった。

民衆裁判所

前5世紀後半のアテネでは、30歳以上の市民の応募者から、多数の陪審員が抽選で選ばれた。陪審員は600人であり、いくつかのグループに分かれて市民の代表として裁判した。民衆の中から、その投票によって判決が出された。

役人

  • アルコン
  • 将軍
  • 財務官

アルコン

アルコンは最高官職で執行官である。毎年9人が貴族の中から選ばれ、裁判、軍事、祭儀、立法などを掌握した。前594年ソロンの4階級では、上位2階級から選ばれていたのに対し、前487年には抽選で選ばれるようになり、さらに前457年以降はソロンの4階級の第3級(農民層)からも選ばれるようになった。そのためアルコン職は形骸化していき、将軍が集権するようになる。

将軍

将軍は軍事上の重要職種であるため、経験者が複数回選ばれた。その過程から政治上の実権を握るようになった。(例は、ペリクレスは一五回将軍についた。)

財務官

財務官は、政治的影響力は低かったが、大金の管理をするため富裕層から選出された。

市民権法

前451年、アテネの市民権を認められるのは、両親がともにアテネ人である者に限るとした法律である。

奴隷制(ギリシア)

古代ギリシアは、古代ローマと並ぶ奴隷制社会であり、奴隷によって民主主義が支えられた。奴隷の多くは戦争捕虜や債務奴隷で、奴隷市場で売買された。アテネでは個人所有の家内奴隷が多く、全人口の3分の1を占め、農業や手工業に従事したが、鉱山では集団労働に使役された。スパルタではヘイロータイと称される隷属農民が、国有奴隷として使役された。

衆愚政治

衆愚政治は、民主政治の堕落した一形態である。ペロポネソス戦争中にアテネの民主政治は腐敗し、好戦的なデマゴーゴスが民衆を扇動する典型的な衆愚政治に陥ったとされる。

デマゴーゴス(デマゴーグ)

扇動政治家。ペロポネソス戦争中のアテネに続出し、アテネの民主政治を衆愚政治に堕落させた。

下層市民の台頭

前508年のクレイステネスの改革で基礎が築かれていたが、ペルシア戦争後、そのときの艦船の漕ぎ手として勝利に貢献した下層市民の発言権が高まることとなる。また、貴族内でも民主派が台頭してきた。

エフィアルテス

寡頭派のキモン(?~前450頃)は、参政権をもつ市民を少なくし、上層の貴族や富裕市民によって政治をおこなおうとしていが、前461年、失脚し、民主派のエフィアルテスが一種のクーデターによって権力をにぎる。エフィアルテスは、アレオパゴス会議の権限を弱め、評議会と民会・民衆法廷を強化して無産市民の政治参加を進めた。しかし、エフィアルテスに対抗する寡頭派によって暗殺される。

ペリクレス

ペリクレス(前495頃~前429)はエフィアルテスの後を継ぎ、アテネの民主主義を徹底させた。役職も、500人評議会の議員も、くじで公平に選ばれることになり、アルコンや軍隊指揮権も農民級にまで開放された。もともと政治はボランティアで行われており、富みを持たない市民は自活のために政治は諦めなければならなかった。しかし、ペリクレスの改革によってアルコン・法廷陪審員・評議員などには手当が支給され、参政する余裕が確保された。しかし、将軍職のみはくじによらず、民会で選出され、しかも連年にわたって務めることが可能であった。ペリクレスアは長く将軍の地位につき国政を指導した。

アテネの排他性

ペリクレスの時代(前451または450)に制定された市民権法は、両親がアテネ市民、アテネ人女性でない限り市民権を所有できないと定めた。また、国内に徹底した民主主義を実現したアテネは、市民以外の人々や他のポリスに対してはきわめて排他的であった。

他のポリス

古代ギリシアの他のポリスで行われた民主主義は、他のポリスも採用する。多くは、直接民主主義をとり、成人男子市民のみにしか参政権が認められていなかった。女性と奴隷は政治から排除されていたし、ポリスに居住する外国人(メトイコイ)は参政権はもちろん不動産所有すら禁じられていた。

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