アッバース朝の滅亡
アッバース朝の滅亡は、1258年のモンゴル軍によるバグダード陥落をもって実質的な終焉を迎えた出来事と、1261年以降マムルーク朝の保護下で続いたカイロ系の名目的カリフ位が1517年にオスマン帝国のエジプト征服で断たれた出来事の二層で理解されるべきである。前者は政治・軍事・学術の中心としてのバグダード世界の崩壊を意味し、後者はイスラーム共同体の象徴的権威の喪失を意味する。両者を結ぶ長期的変化として、地方権力の自立、軍事的担い手の変容、財政基盤の脆弱化、宗派間の力学、そしてユーラシア規模のモンゴル拡大が挙げられる。
衰退の背景
9世紀末から10世紀にかけて、広大な帝国の統治コストは増大し、中心財政は兵糧・俸給の支出に耐えられなくなった。アミールや総督への権限委譲が進み、土地課税の徴収権(イクター)が分散、軍事力も地方常備化した。これによりカリフは宗教的・名目的権威に傾き、中央による再統合は困難となった。
ブワイフ朝の支配
945年、シーア派系のブワイフ朝がバグダードに入城し、カリフを保護名目で事実上の庇護下に置いた。カリフは廃立権を奪われ、勅許・儀礼の権威装置へと縮減された。この段階でアッバース朝は王朝としての実力を喪失し、権力の中核は軍事勢力の手に移行したのである。
セルジューク朝の介入
1055年、トゥグリル=ベグ率いるセルジューク朝がスンナ派秩序の回復を掲げてバグダードに入城した。ニザーム=アルムルクの行政改革や学寮ニザーミーヤの整備により、カリフ権威は形式上復位したが、実権はスルタンが掌握した。カリフとスルタンの二元体制は、名と実の乖離を制度化したに等しい。
モンゴルの西征とバグダード包囲
13世紀半ば、フラグ率いるモンゴル軍が西アジアへ進出した。カリフ・ムスタアスィムは有効な外交・軍備整備に失敗し、1258年、バグダードは包囲ののち陥落した。宮廷と学者・住民は大規模な殺戮に遭い、財貨と蔵書は失われ、アッバース王権の政治的実体はここで終焉した。
学術都市への打撃
知恵の館を中心とする翻訳・学術の蓄積は甚大な損耗を受けた。図書館・私蔵本は散逸し、都市インフラと手工業も破壊された。税基盤・学術基盤・都市社会の三位一体の強みが喪われたことで、バグダードはイスラーム世界の一極的中心である資格を失ったのである。
名目的継承:カイロ・アッバース家
しかしアッバース家の一族は生き延び、1261年、マムルーク朝のスルタン、バイバルスによってカイロでカリフ位が再興された。第一次のカリフは遠征途上で落命したが、のちに別系統が即位し、金曜礼拝のクトバやスルタン叙任の儀礼において象徴的権威を担った。
マムルーク朝下の政治的機能
カイロ・アッバース家は、スルタン権の宗教的正統化に資することで機能した。勅許・勅文の発給、称号の授与、対外的威信の保持など、権威の媒介装置としての役割である。ただし軍事・財政・行政の実権は一貫してマムルーク政権が握った。
1517年の終焉とその意義
1517年、オスマン帝国のセリム1世がエジプトを征服し、カイロ・アッバース家のカリフは廃され、名目的継承も断絶した。カリフ号の継受や性格については史学上の議論があるが、アッバース家に連なる権威の公的機構はここで消滅し、長世紀に及ぶ縮退は完全な終止符を打った。
滅亡をもたらした諸要因
- 地方軍事勢力の台頭と徴税権分散による中央財政の弱体化
- ブワイフ朝・セルジューク朝期の名実分離と権力二元化
- 外交と防衛の失敗が招いた1258年の破局
- 学術・都市機能の崩壊による回復可能性の喪失
- カイロ期の象徴化がもたらした政治的実体の空洞化
歴史学上の位置づけ
アッバース朝の終末は、普遍帝国モデルから地域多極体制への移行を画する転換点である。名目的権威の存置が人心の一体性を辛うじて保った一方、実力の担い手はスルタン・武人・官僚へと交代した。かくしてイスラーム世界は複合的秩序の時代へ踏み出し、アッバース的世界像は歴史の背後へ退いた。
主要年表
- 945年 ブワイフ朝がバグダード掌握、カリフ権威の実質化喪失
- 1055年 セルジューク朝入城、スルタン権とカリフ権の二元体制成立
- 1258年 モンゴル軍がバグダード陥落、王朝としての実体が消滅
- 1261年 カイロでアッバース家が名目カリフ位を再興
- 1517年 オスマン帝国がエジプト征服、名目的継承も断絶